「TERF」―普通であり、普通じゃない私たちの話
最近の笙野頼子さん周辺の最近の動きについて振り返り、そこから「TERF」について考えてみたい。
最近の動きといっても、素人の私が見た範囲の話でしかないし、そこから考えたことも私の頭で考えたことでしかないので、的を外しているかもしれない。
それでも、私が問題として感じたことを書いてみる。ブログとはそういうものだと思うからだ。
先に結論を書いておくと、普通とされる立場も普通じゃないとされる立場も両方ある社会であって欲しいということだ。
今時、他者に対して「異常」なんていう人はなかなかいないが、「差別者」や「カルト」などの別の言葉で「この人の意見は聞くに値しない」とされることはある。
そういう風に言葉を封じることに私は反対する。「TERF」と呼ばれる私のような女性がいても良いはずだ。
1⃣笙野頼子さん周辺の動き
①批判者と支持者
(1)批判者
『発禁小説集』を読んで内容の批判をしていた人はほとんどいなかった。
最近は批判されるべき作品は読まないこと、そもそも目に触れさせないことが大事とされている。
笙野さんとは関係ないがシーラ・ジェフリーズの『美とミソジニー』という本もトランス差別的とされ、辻愛沙子さんが代表を務める団体がフェミニズム本を紹介するコーナーを作ったとき、その本棚に『美とミソジニー』の背表紙が見えたということで、多くの批判を受けて謝罪していた。
『発禁小説集』の内容以外での批判では、笙野さんがネット上に発表した文章で山谷えり子に投票したことやジョージ・ソロスがLGBT理解増進法の成立を支援していたとすることについては批判が来ていた。
(2)支持者
しかし、関係者で笙野頼子さんを批判する人たちばかりではない。
作家の町田康さんは「婦人画報」に『笙野頼子発禁小説集』の書評を載せた。
さらに、書評家の栗原裕一郎さんはTwitter上で積極的に笙野頼子さんの味方をしてくれた。
もちろん、関係者だけではない。読者がいる。ネット検索をすれば、『笙野頼子発禁小説集』を読み、高く評価する個人の感想を沢山見ることができる。笙野さんへの感謝の声も沢山ある。
②栗原裕一郎さんの記事とツイート
(1)笙野頼子さんを「パージ」した人たちを批判
栗原さんは特に力を入れて笙野さんを援護していた。
このような記事を書き、笙野さんが文壇から「パージ」されている現状を訴えている。
さらに、ツイッターでは「文藝」の編集長である坂上陽子さんや笙野さんを批判する記事を書いた水上文さんの批判をしている。
ついでに書くと『文藝』編集長の坂上陽子はおれの元担当編集だよ。笙野頼子が最近書いたところによると、坂上さん、水上文の批判文への笙野の反論の掲載を拒否したらしいじゃない。人を差別者呼ばわりしておきながら反論の掲載を拒否してパージするって、ずいぶん大概な言論ファシズムなんじゃないの?
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) 2022年7月25日
水上文が笙野頼子を差別者呼ばわりしたのは蛮勇などではなく、TRA界隈の「作法」らしいことがわかってきた。差別者のレッテルを貼りながら「議論」は徹底して避けキャンセルするのも「作法」らしかった。水上は、差別者と議論することに公正さなどないと言うが、これもTRAの公式見解みたいなものだ。
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) 2022年7月30日
(2)「TERF」と「TRA」の対決を問題視する
栗原さんは笙野頼子さん個人の問題だけでなく、笙野さんら「TERF」と呼ばれる人たちが「TRA」と呼ばれる人たちから批判を受けたり、「差別者」と非難されていると指摘する。
栗原はトランスフォビアに転んだの何だの言われるに決まってるから(もう言われてるか)、笙野頼子をめぐる件についての考えを少しまとめておこう。
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) 2022年7月30日
栗原さんは「TRA」の行為の問題を指摘し、「TERF」は「普通の女性」であり、そういう人たちを「排除」してきた「TRA」の「異常性」を訴える。
TERFと排除された人たちのほとんどは、トランス差別者などではなく、生物学的男性が女性スペースに侵入することに不安を覚える生物学的女性にすぎない。
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) 2022年7月30日
つまり普通の女性である。
そんな普通の女性に「TERF」という烙印を押し差別者呼ばわりして排除してきたことに、TRAの異常性は集約されるだろう。
こういうツイートもしている。
ツイッターを眺めると、おおよそ雌雄は決した感じですかね。
— 栗原裕一郎 (@y_kurihara) 2022年8月5日
「TERF」の主張は「TRA」の主張よりも正当性があると栗原さんは言う。
元論敵であった笙野さんを援護してくれる栗原さんについては感謝したいが、「TERF」は「普通の女性」なのか?というところに疑問がある。それは私が「普通」という言葉に敏感なだけかもしれないが…
そもそも「TERF」と呼ばれることに正当性があるのかというところにも疑問がある。
そういった疑問について考えてみたい。
2⃣「TERF」は普通なのか?
①言葉についての疑問(「TERF」、「TRA」、「シスジェンダー」、「トランスジェンダー」)
(1)「TERF」とは、「TRA」とはだれなのか?
そもそも「TERF」「TRA」と呼ばれる人たちは誰なのか?という疑問がある。
TERFはTrans- Exclusionary Radical Feministの略語である。英語でトランス排除的ラディカルフェミニストという意味である。
栗原さんをTERFと言う人をツイッターで見かけたが、栗原さんはラディカルフェミニストではおそらくないので、TERFと呼ぶのは適切ではないと思う。
同様に、「TERF」と呼ばれる人たちの中には別にラディカルフェミニストでない人も多くいる。私もラディカルフェミニストではない。
「TERF」を批判する側も「TERF」はフェミニストにはなれないとして、トランス差別者、トランスヘイター、トランスフォーブなどの名で呼ぶ人もいる。
TRAはTrans Rights Activestの略である。トランスの権利を求める活動家という意味である。
「TERF」と対立する思想を持つ人間である。「TRA」は「トランスカルト」と呼ばれることもある(私はカルトという言葉は軽々しく使うべきではないと思っているので「トランスカルト」という言葉を使うのは良くないと思っている)
「TERF」も「TRA」も誰がそうなのかというのははっきりしない。
それは、自ら「TERF」「TRA」と名乗る人はほとんどおらず、基本的に他者から呼ばれる名だからだ。
(2)他称である名前
「TERF」というのは他者から呼ばれる名であることが多く、蔑称的な使われ方をする。TERF=差別者なので、意見を無視したり、執拗に嫌がらせをすることも許される存在であると見なされる。
「TRA」についても他者から呼ばれる名であり、嫌だと言う人が多い。
嫌だという人が多い他称の名には他に「シス女性」というものがある。「シス女性」は「トランス女性」と対になる概念である。
ちなみに、私も「シス女性」と呼ばれるのには嫌悪感がある。「トランス女性」と対になる概念が必要なのは理解できるのだが、女性の前につく言葉が「トランス」「シス」であることにより、「女性」のベースは「gender identityが女性である人」となってしまっている。それ以外の意味がなくなっている。
私はgender identityが女性だから女性なのではなく、身体的に(生物学的に)女性だから女性なのだと思っている。しかし、「身体的女性」「生物学的女性」とその対になる概念としての「女性」を語ることは避けられているし、こちらが口に出すと差別と言われることがある。
最近も、こういうツイートがあった。「身体女性」「身体女性」という言葉を使うのにはリスクがある。
「身体男性」「身体女性」という人を傷つけるための言葉を使う人とは議論できないのでミュートします。
— 平河エリ / Eri Hirakawa 🇺🇦🏳️🌈 (@EriHirakawa) 2022年8月12日
トランスフォーブの主張の核は「身体男性は女性ではない」じゃないですか。議論出来る余地がないですね。 https://t.co/eE3w56ytRq
その非対称性、gender identityに比べて身体的な要素が軽視されている状況を否応なく意識させられるので、私は「シス女性」と呼んで欲しくないと思っている。
とはいえ、対になる概念が必要という点では[TERF」という言葉で呼ばれる人間がいる以上「TRA」という対になる言葉は必要だろう。
他称である名前である「TERF」「TRA」と呼ばれる人にも色々な人がいる。「TERF」の方に正当性があると言っても、誰のどの意見に正当性があるのかは不明である。
さらに「TERF」の意見が普通の女性の意見と言えるのかも分からない。
②「TERF」は普通なのか?
(1)多数派ではある「TERF」
「TERF」は普通なのかどうかを考える。まず普通とはどういう意味だろう?
多数派であることを普通と呼ぶなら、「TERF」的な考えはトランスではない女性の多数派ではあると思う。
問題の聴き方にもよるだろうが、例えば「トランスジェンダーの女性(戸籍を変えていない)が女性スペースを使うことを拒否してはいけないと思うか?」と聴いたら、おそらく過半数のトランスではない女性は「いいえ」つまり「拒否しても良い」と答えるだろう。
また、「スポーツの大会の女性部門にトランスジェンダー女性が参加して優秀な成績を収めることをどう思うか?」と聴いたら、やはり過半数のトランスではない女性はネガティブな返事(公平ではない、など)をするだろう。
栗原さんが言うように、そういう意味で「TERF」はトランスジェンダーではない女性の過半数だとは言える。
(2)存在を許されない「TERF」
普通という言葉にはさまざまな意味がある。
例えば私が修理したばかりの掃除機を使っていて、家族に「その掃除機どう?」と聴かれて私が「普通に動くよ」と答えるという会話があったとする。
その場合、普通の意味は「多数派のように動く」というよりは「通常通り」「問題ない」といった意味だろう。
そういう意味で「TERF」的思想、またその思想を持つ者は普通ではないとされる場面がある。
例えば水上文さんの笙野頼子さんを批判する書評は載せられて、それに対する笙野頼子さんの反論は載せられないとする「文藝」という雑誌がそうである。
また「現代思想」という雑誌では、千田有紀さんが2020年に載せた論文が問題となった。その後、千田さんの文章は「現代思想」に載ることはなかった。さらに、2021年11月号に載った高島鈴さんの論稿には、冒頭に脈絡なく千田さんへの批判が載っていた。
私は千田有紀さんの論文については積極的に支持しているわけではないのだけど、ここまで激しく非難されなくてはなれなかったのか?という疑問はある。
2022年5月号には「ハンマーの共鳴性 」(S・アーメッド、藤高和輝訳)という論稿が載ったが、「TRA」は「TERF」と議論する必要はないと読める内容となっている。
「TERF」的な思想、その思想を持つ者は「文藝」や「現代思想」という雑誌の中では存在できないし、間違って存在してしまったら徹底的に非難され、いかに間違っていたかを指摘されてしまう。
そういう意味では「TERF」は決して普通の存在なのではない。
普通という言葉にはいくつかの意味があり、それぞれに対義語がある。私が(1)で示した「多数派」という意味においては普通の対義語は希少である。ここで私が言ったような意味においては普通の対義語は異常である。
「TERF」は希少ではないが、異常ではあるという意味において、普通ではないとされる。
3⃣「TERF」が生き残る道を探る
①「TERF」批判の現状と対抗する道
(1)「TERF」が普通でないと確認しあうことで結束する場がある
「文藝」や「現代思想」で見られたように、「TERF]は普通ではなく、「TERF」は差別主義者で糾弾すべき存在と考える人が普通とされる場所がある。
ある作家が書いた「TERF」を批判する文章を、別の作家が読み読み同意を示すことで、作家同士の繋がりができる。そういう意見を送り合い、認め合うことで、自分たちの正当性を確認できる。Twitterなどをやっていれば、RTやいいねを貰うことで、「TERF」批判の正当性をさらに高めることができる。
さらに、読者も「TERF」批判派の作家の文章が載っている雑誌を買い、読む。TwitterなどのSNSで賛同の意を示す。
私は想像するしかないが、「トランス差別をしていない」と仲間を確認しあうことで得られる満足感はあるだろう。
さらに「TERF」の意見は聞く必要がないとされているので、反論を受けても通常の反論を聞くような負担は少ない。
ある意味とても良い場ができている。
こうなると、「TERF」側は圧倒的に不利のように見える。
逆転する道はあるのだろうか?
(2)現状を変えるには数で逆転すると良いかもしれない
勝ち目が全くない訳ではない。
ネット上で炎上していた人物がいつのまにか逆転して持ち上げられている場面は度々見かける。大体、批判の対象が別の人物に移っていて、その比較対象として散々批判を浴びていた元の人物が持ち上げられている。
世の人は大体誰かを持ち上げる代わりに誰かを批判したいのだ。だから、より批判されるべき対象を示すことで、「TERF」にも逆転の可能性はあるかもしれない。「文藝」などの存在できなかった場所に普通に存在するようになるかもしれない。
しかし、あまり期待はできない。そもそも、普通でなければいけないのかという疑問もある。
②「TERF」が生き残ってほしい理由
(1)普通で普通じゃない女の言葉が欲しい
再び名前を出させてもらうが、笙野頼子さんについては、普通でない作家として文芸誌で活躍することができれば良いと思う。
人によっては差別だと思う発言もあるかもしれないが、それでも表現としては出すべきである。事実を伝えることが大事なニュースや学術論文ではなく、文学なのだから。
私は笙野頼子のことを普通ではないとは思わないが、広く受け入れられる作風かといわれると迷う。それでも「TERF」と呼ばれる女、多数派という意味では普通の、でも正しいという意味での普通ではないとされる女が書く小説があっても良いじゃないかと思う。それが何年か先には正しいという意味でも普通になっているかもしれない。
(2)本当の多様性が欲しい
女性作家が昔より増えているのか分からないが、女性作家の存在感は当たり前にある。しかし、また一見多様な女性作家が数多くいるからといって本当に多様であるかどうかは別である。
笙野頼子のような作家の言葉を載せないようにし、「TERF」が間違っていることを確認し合うような作家しかいないのであればそれは多様ではない。
私は「TERF」の言葉も認められる多様性のある社会が必要だと思う。
まとめ
何が普通で何が普通でないのかは時代によって変わる。
「TERF」と呼ばれる女の思想は昔は普通と言われていただろうし、今も数の上では普通と言えるだろうが、正しくないという意味では普通じゃないと言われるようになった。それによって、笙野頼子さんのような作家の活動が制限されるようなことも起きている。
今後の流れ次第では「TERF」と呼ばれる女は数の上でも少数派…普通じゃない女になるかもしれない。
「TERF」を批判する人たちは、使用できる言葉を制限していく。
身体的・生物学的女性を指す意味での「女性」という言葉、さらにその意味を示すための「身体女性」という言葉も最近は差別と言われるようになった。女性にはgender identityが女性であるという意味以外を持たせてはいけないのだろう。
トランス差別をする人はフェミニストじゃないという理由で、「TERF」は「フェミニスト」と名乗ることもできなくなる。
生理や出産の話をしたいときに「生理のある人」「子宮のある人」という言葉を使わないといけないと言われ、そういう話をすることを難しくする。「女性」や「身体女性」という言葉を使わないと自分の体の話ができないと思う人だっているはずなのに…
また「TERF」とされた女性たちの言葉は存在できる場所を制限される。笙野頼子さんや千田有紀さんなど。
クラウドファンディングで本を作るプロジェクトも停止させられた。
readyfor.jp
さらに、言葉を出せたとしても、差別者だから聞かなくても良いとされる。批判することで批判者の結束を固める目的にしか使えない言葉にされる。
「TERF」は差別者なのだからこれらの対応は当たり前と思う人もいるから、今の状況があるのだろう。
でも私はそういう状況が良いとは思えない。
いくら「シス女性」という言葉と概念、必要な時に「生理のある人」「子宮のある人」という言葉を使っていけば「生物学的女性」「身体女性」といった言葉はいらないという人もいるだろうが、私は身体的や生物学的な意味の女性という言葉は必要だと思う。そういう女性を何もつけずに「女性」と呼ぶこともできると思う。
すべての女性に女性のgender identityがあるわけではなく、身体的・生物学的な女性の概念があることで女性と思える女性もいる。
私はそう信じているから、差別者と言われても今後は数の上でも少数派になったとしても「TERF」と呼ばれても構わないし、「TERF」がいても良いとされる社会であって欲しいと思う。
「生理のある人」と呼ばれたくなかったので、7月21日のソフィ公式さんのツイートについて、ユニ・チャーム株式会社に意見を送った
先日、このようなツイートのやり取りが話題になっていたのを見た。
生理に悩まされ続けている中学生娘が「ソフィで働きたい」と言い出した。
— グリ (@glicommunity) 2022年7月18日
なんで?と聞いたら、
「シンクロフィット神だし、デリケートウェットシートが快適すぎるから、絶対生理に理解ある会社だと思うの」と。
で、初任給調べ始めたら、「なんで男性と女性で給料ちがうの…?」と困惑していた。
ソフィ商品をご愛顧いただき誠に有難うございます☺️
— ソフィ 公式 (@sofy_jp) 2022年7月21日
ソフィでは『7日間は、変えられる。』をスローガンに、生理のある人の生活を少しでも快適にできるような商品開発に努めています。
娘さんの望む未来に貢献できる会社であるよう、引き続き努力して参ります。
今後ともよろしくお願いします☺️
初任給の件については私は分からないのでコメントしない。
ただ、ソフィ公式アカウントが「生理のある人」という言葉を使ったことが気になったので、意見をユニ・チャームのお問い合わせ窓口に送ることにした。
今まで企業に意見を送ったことは、推しのアイドルが出演した番組に対して「これからも出して欲しい」といった内容を送ったことくらいしかない。
今回「生理のある人」とソフィ公式アカウントが呼んだことについて気になったというのは相当で、私にとって軽く流せる話ではなかった。
以下の文章を省略して短くした文章をユニ・チャームのお問い合わせ窓口に送った。
7月21日にソフィ 公式さん(@sofy_jp)のツイッターアカウントにて、
「ソフィ商品をご愛顧いただき誠に有難うございます☺️ソフィでは『7日間は、変えられる。』をスローガンに、生理のある人の生活を少しでも快適にできるような商品開発に努めています。娘さんの望む未来に貢献できる会社であるよう、引き続き努力して参ります。
今後ともよろしくお願いします」
という発言があったことについて、気になったので、突然ですが意見を送らせていただきます。
ソフィさんが「生理のある人」という言葉を使っている意図は理解しているつもりです。「生理のある人」と女性とはイコールではないという考えに基づくものだと思っています。
しかし、ツイッターでも反対意見が多数あったように、私のように「生理のある人」と呼ばれたくない女性もいます。ご存じの通り、女性は遥か以前から子供を産む性として利用され、差別や搾取に合うことが多い性でした。一人の人間としての人格を尊重されず、「子宮」や「膣」といった男性にはない部品、「生理」や「出産」といった男性にはない機能をもった道具のような扱いを受けることが多々ありました。
私はそのような歴史や今も残る風潮を忘れることはできません。「生理のある人」という言葉は、生理という機能で人間を名付け、主体として生きる女性よりも客体として値踏みされる女性のイメージを想起させます。
もちろん、そう思わない女性もいるでしょうが、私のような女性が嫌だと思う意見も、ただの我が儘というだけで受け取って欲しくないと思います。また、ツイッターでは私のように「生理のある人」という呼び名に反対する多くの女性がいましたが、そのツイートが引用されたり、まとめサイトに上げられたりして、嘲笑、冷笑交じりの批判に晒されています。「これだからフェミは」とフェミニストと名乗っていない人も含めて雑にカテゴライズして馬鹿にして良い対象となっています。
自分が呼ばれたくない呼び名で呼ばれたくないと主張するだけで、嘲笑や説教、侮蔑の対象となってしまうこと…それは女性であることと関係があるでしょう。女性は常に譲ることを求められる性であり、夫婦別姓に対する反対意見でも見られるように、押し付けられた呼び名を拒否することが我が儘と見なされる性でもあります。
女性か他のカテゴリの人間のどちらかが嫌な思いをしなければならないとき(今回の件では「女性」と呼ばれて嫌な人と「生理のある人」と呼ばれて嫌な人が存在します)譲ることを求められるのは女性であることが多いです。それも相手は「譲られている」という意識すら持つ必要がなく「女性は譲って当然」と見なされることが多いのです。
ソフィさんのツイートにそのような意図はなかったと思いますが、結果として「生理のある人」という呼び名を受け入れるか受け入れないかで人間を分断し、反対する人(主に女性)を我が儘で間違った人間と批判させることを促しました。
そのように分断を煽る結果となったことで、女性の中には引き裂かれるような思いを感じた私のような人もいます。そのことをソフィさんは自覚してほしいと思います。「生理のある人」という呼び方に賛同している人も多くいることは確かですし、私が何か良い代替案を持っているわけでもありません。
できれば生理を経験する体を持つ人を(性自認とは別として)「女性」と呼ぶということにして、そういう意味で「女性」と呼んで欲しいと思います。(生理を経験する体を持つ人はジェンダーが何であってもセックスは女性だろうという考えを私は持っています)
それが困難なのであれば、必ず(省略することなしに)「女性や生理のある人」「生理のある人や女性」と併記することくらいしか思いつきません。
それでも「生理のある人」という呼び方に引っ掛かりを覚える私のような人がいることを知ってほしいと思いますし、考えていただけたらと思います。
長くなりましたが、読んでくださりありがとうございました。
—giganticspring
私はソフィの製品である「はだおもい」や「シンクロフィット」を愛用しているし、これからも使うと思う。
だからこそ、自分の身体に訪れる症状に対処するために製品を使うことにおいてですら、不本意な呼び名で呼ばれて不当に傷つけられることに黙っていられないと思った。
送った当日にユニ・チャームから返信があり、「お知らせいただいた件につきましては、関連部門に伝えさせて頂きます」とのことだった。
最近、「生理のある人」や「子宮のある人」をさも配慮した呼び名であるかのように使用する人は多い。でも、私はそう呼ばれるのは嫌だし、それで損なわれるものは確実にあると思う。
今後も反対していきたい。
安倍元首相は国葬にして欲しくないし、笙野頼子さんは発禁小説家であって欲しくない
安倍元首相が殺された。
痛ましい事件であり、あってはならないことだ。
しかし、彼を国葬にすることには私は反対する。
安倍元首相「国葬」方針 野党各党は賛否両論 #nhk_news https://t.co/ZjRt63ETn5
— NHKニュース (@nhk_news) 2022年7月15日
野党で反対しているのは、日本共産党、れいわ新選組、社民党である。
私も安部元首相の国葬に反対する。
法的根拠についてはわからないが、税金で元首相の葬儀が行われることはおかしいと思う。すべての国民が安倍元首相に好意的な評価をしていたわけではない。抱く思いもそれぞれ違う。
国葬にしてしまうことで、すべての国民が安倍元首相の生前の功績を讃え、死を悲しんでいるという印象を国内外に与えてしまう可能性がある。
元首相とはいえ、他の国民と同じただの人であるはずなのに、税金を使って特別扱いをすることは許されないことだと思う。それによって、安部元首相の死を悲しむことが「日本国民としての当たり前」になってしまい、そういう態度をとっていない者が多数派の国民に不快感を与え、まるで非国民のように言われてしまうことも心配だ。
いや、幹事長がこんなことを言ってしまうのだから、もう私のような者は非国民なのかもしれない。
私は茂木氏の言う「国民」の中に入っていないのだから…
国葬に賛成する人しか国民にとしてみなされない日本になってしまうことに、私は反対する。
日本共産党の志位氏の言ったとおり「弔意というのは、誰に対するものであっても、弔意を示すかどうかも含めて、すべて内心の自由にかかわる問題であり、国家が弔意を求めたり、弔意を事実上強制したりすることは、あってはならないこと」だ。
今からでも、国葬をやめて欲しい。
話を変える。
笙野頼子(敬称略)の最新刊『笙野頼子 発禁小説集』を読んだ。
この作品が普通に出なかったこと(「群像」に掲載された作品が複数あったのに講談社からは出なかった)ことに暗い気持ちになるが、それでも本を出せたのは笙野頼子という作家自身の力と、彼女とその作品が持つ力に動かされた人たちの力だろう。そのことは心強く思う。
なぜ普通に講談社から出なかったかというと、「質屋七回ワクチン二回」やほかの掌編にある主張が含んだ作品を刊行することはしない、と判断されたようだ。
(出版部長、群像編集長、単行本チーフの合議の上で)
その主張は女性かそうでないかを肉体で決めるという話である。
女性用スペースのことや、女性スポーツのこと、女性自身や女性自身の身体が関係する物事についてどう呼ぶか、といったことを女性が決めることは差別と言われることがある。
最近のそういう流れによって、笙野頼子の作品は出版されるべきではない、と判断されたのである。
確かに、笙野頼子の表現については私もどうなのだろうと思うところもあった。
例えば、「陰茎つき自認女性」など頻繁に「陰茎」という言葉が出てくる。私は女性の身体を軽視する風潮に反対だが、陰茎のあるなしを強調することはあまりよくないと思う。
私とは違い、笙野頼子は女性かそうでないかの判別法として陰茎の有無をより重視しているようだ。「GID特例法」を尊重し、手術して体や戸籍を変えた者は女性と認めているようだ。だから、陰茎の有無が女性かそうでないかを判断するときに重要な要素となるのだろう。
私は陰茎の有るなしで女性かそうでないかがスイッチのオンオフみたいになるとは思っていないので、「陰茎つき」と他人を呼ぶことはよくないことだと思ってしまう。
(笙野頼子もそんな風には思っていないのかもしれないが、私はそう思っているように思えた)
そういった点で気になることはあったし、人によっては他に気になる点もあるだろう。
しかし、だからといって出版しないという選択は最悪だと思う。
最近の文芸誌は趣向を凝らした企画で読者を惹きつけているし、多様性をテーマにした作品も多くなったように思う。
しかし、実際のところは笙野頼子のように表現することを止められる作家がいる。反論の場も与えられずに、批判だけを受けている。
多様性と言いながら多様ではない現在の状況がある。私はそのこと(多様性に見せかけた同調圧力があること、世間の流れに後押しされた少数の人間による判断によって、一人の作家の表現の自由が侵害されていること)を忘れたくないし、忘れてはいけないと思う。
また、参議院選挙の直前、笙野頼子が山谷えり子氏に投票するとホームページに書いていた件についても書く。
私はこのブログに山谷えり子氏について書いた。
正直、笙野頼子が山谷えり子氏に投票する可能性はあるな、と思っていたから、そう書いているのを見ても驚かなかった。
それはもちろん、彼女のLGBT理解増進法案についての発言があったからだ。
女性用トイレやスポーツの問題があることを発言した山谷氏。
そういった問題はないし、そういった問題があるという話をすることは差別だということを言う人がLGBT理解増進法の成立を進めようとする者の中に多かった印象があるし、今もそうだ。
だから、そういう問題は存在していることを認識してくれているように見える山谷えり子氏の発言には私にも惹かれるものがあった。
私の場合は山谷えり子氏の考え方のほかの部分で決定的に合わないと思ったから、絶対に支持はできないと思ったが…
笙野頼子はまずはLGBT理解増進法の成立などで「女を消す」動きが加速することを懸念しての山谷氏への投票となったのだろう。
『笙野頼子 発禁小説集』には笙野頼子が日本共産党支持をやめるようになった理由も書かれている。
一応、日本共産党の記事では簡単に「差別者」と糾弾するやりかたは良くないということも書かれている。
それでも、日本共産党支持者の笙野頼子への糾弾を止めることはできていなかった。
右とか左以前の問題として、人は自分の話を聞いて誠実に対応してくれそうな人を支持したいと思うのが当たり前だろう。
そういう人を選んでも良いと思えることで、自分は意見を尊重されるに値する人間だと思うことができる。
だから、私は笙野頼子の投票の選択を支持する。
【追記あり】参議院選挙の投票日が近いので、政治について考えてみた―本当に「誰も取り残さない社会」とは何だろう?
先日、よく行くスーパーで店員に怒鳴っている客がいて、それを見た私は落ち込んだが、そういう怒鳴るような人も幸せに生きられるような社会を目指さないといけない。
もちろん、怒鳴ることを許容する社会というわけではない。罰が必要なこともあるだろう。
どんなに他人に不利益を与える存在だとしても、行為を批判しなくてはいけないのだし、存在は誰にも批判できない。幸せに生きる権利があると言える。
世の中酷い人間はいくらでもいる。信じられないことをする人間もいる。
それでも、どんなクソみたいな人間でも、そのクソさは批判されたとしても、幸せに生きていける日本にしようという社会が良いと思う。
そうすると、結局は当選確実な候補者ではなく、あまり支持されていない候補者を選んでしまうのだが…(全く可能性ゼロではなく当選争いはできる候補者を選ぶつもりだが)
野党の議員の背景には、支持して投票した数多くの有権者がいるのであり、その話を「何一つ聞かない」というのは有権者の話を何一つ聞かないということに繋がる。野党の議員も有権者の代表だという考えがそこにはない。
自民党、与党と野党の議員との間で、話を聞くか聞かないかに差をつけることはあってはならない。有権者の代表である議員という立場の人間ですら野党というだけで話を聞かれないというのは「誰も取り残さない」社会から最も遠いものだろう。
有権者…国民を馬鹿にしている、あってはならない発言だと思う。
笙野頼子さんの唯一無二の強さー「海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集」
笙野頼子さんの本を読んだ。
先月、最新刊である『発禁小説集』が発行されたが、そちらではなく2020年に発行された文庫『海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集』の方である。
難解ではあるのだが、ただ難解なだけでなく、その先に必ず得る物がある。
特に80年代の作品は暗く閉塞的である。孤独の中で抱く妄想について書かれていて、恐ろしく鋭く組み立てられた、美しい文章で綴られている。生きるために妄想を抱き、妄想と戦い、妄想とともに生きているという凄まじさがある。
90年代の作品になると少し開放的になるが、それでも鋭く身の回りの出来事を切り取る鮮やかな表現力は変わらない。女性が一人暮らしすることの困難も描かれる。
デビュー後10年本が出ず苦労していた時代の作品達であるが、独創的な輝きは十分にあり、読み応えがある。
それだけでも読後十分に満足したと思うが……
さらに文庫化の書下ろし「記憶カメラ」という作品が収録されている。私小説であり、収録された作品群を書いた頃の振り返りと現在の状況についても知ることができる作品である。
そこで、初期作品を書いていたころに体調が悪くて動けなかったり、他の人のように働けなかったりしたのは難病のためだったことが分かる。
笙野頼子(ここから敬称略)は女性であるが故の困難に遭いながら、自分を男を感じたり自分が女の肉体を持つことに向き合うことになったりしながら生きてきた。
小説家としての言葉を武器に、誰にも理解されずに難病と戦い、外部とも戦ってきた笙野頼子の唯一無二の強さがそこにある。優しさも……
私が惹かれたのは、難病について書かれた文章の一部である。
さて、それから何十年? 病名がついたのは五十六歳、十万人に数人、混合性結合組織病、膠原病の一種。就業率十五パーセント、圧倒的に女性の病気、よくフェミや左翼の女性でさえも専業主婦を叩いているが、その中にはこの病気の人もいて、中には合併症の肺動脈性高血圧になってしまっているのに糖尿病の姑の看病をしていたりする。その他には私よりずっとハードな検査をした後でそのまま家族四人のご飯を作っている女性もいる。
私は笙野頼子と同じ病気の人ではないし、他の病気も患っていない健康体の女であるが、他の事情で専業主婦である。
確かに、専業主婦を志望する若い女性に説教したり、専業主婦をしていた親世代を批判するフェミニストたちがいる。今でも様々な理由で専業主婦をしている女性は多いが、ポジティブな取り上げられ方をすることは少ない。
そんな状況で、フェミニストとして認知されている(されていた)笙野頼子が専業主婦にも理由があるのだと認識してくれているのは、私とは全く違う境遇の話であるとはいえ救われた気持ちになる。
後に、こういう箇所もある。
(前略)そんな私が「ソフトじゃない売れないフェミニズムはいらない」とか言われる覚えはないしそもそも流派のあるようなフェミではない。今はただフェミ自称の乗っ取り男や侵入男、フェミ説教強盗を女の居場所から叩きだせと言いたいだけ。私? 私は文学だ、思想ごときになる前の永遠の原初だよ。なんらかの哲学や思想、政党等と親和的にしていてもいつでも捨ててやる。
思想如き…
その思想と合わせることができない自分のことをずっと考えてしまっていた私にとっては衝撃的な文だったし、確かに、いくら自分が救われた思想だからといって、その思想に縛られるのはおかしいと思えた。
一人一派といったり、幾つかの流派があったり、それでも〇〇なのがフェミニズムだ。そうでないとのはフェミニズムでないという言葉が目に入ると胸がチクリとなる。フェミニズムがさらに世間で認められるようものになるためには一人一派とか言ってられないだろう。一つにならなければいけないのだろう。
私はフェミニズムに感銘を受けて支えられてきたのに、結局そのフェミニズムが一般化する障壁となる存在になって居ると思う。というか最初から私はフェミニズムの思想に見合う人間ではなかったくせにそれに惹かれていただけだったのだろう。
しかし、フェミニズムという言葉は不思議である。
一見フェミニズムは女の権利運動を表す言葉に見える。
他の権利運動……たとえば、障害者権利運動であれば、いくら派閥に分かれることがあっても、まず障害者がその言葉が示す範囲から漏れることはありえないだろう。
しかし、フェミニズムの場合、流派に別れるだけでなく、そこから「本物のフェミニズム」の議論があり、その結果として女がそこから漏れることがある。どの女がフェミニズムから漏れるのかの判断を女ではない人……たとえば男が下すこともある。
とにかく、私はフェミニズムという思想のために生きているのではないし、その他の思想のために生きているのではない。ただ私は私のために生きているだけだ。
そのために、思想でも何でも、あるものは利用して、合わなくなれば捨てていくという強さを持って良いというメッセージを笙野頼子の言葉はより与えてくれる。
私は文学だ、なんて口が裂けても言えないけど、私がより私として生きるために、様々なものを味方につけたり利用しながら強く生きていこうとすることが文学的に見える日が来るかもしれない。
笙野頼子の作品を読むと力付けられることが多い。笙野頼子が同じ時代を生きていることを嬉しく思う。
私は笙野頼子とは違う人間だ。難病ではないし、他の苦労もそんなにしていないと思う。
それでも、闘って良いのだ、と思える。私のやり方で、好き勝手に、誰にも文句を言わせない……私は笙野頼子から貰った強さを武器に闘い生きていこう、と思える。そう思わせてくれてくれる本は希少だ。
凄まじい文章能力で自身を、この社会を見つめ切り取り闘っていく。そんな笙野頼子の姿の昔と今を読むことができるこの本を読めて良かった。
最新刊も読みたい。
4/13に公開された、Youtube動画のれいわ新選組の大石あきこ氏の発言について思ったこと(トランスジェンダーの人が女性用トイレを使用することについて「気にするな」と言ったことなど)
れいわ新選組の衆議院議員、大石あきこ氏は同じれいわ新選組のよだかれん氏との対談動画を4月13日に公開した。
それを見て気になったことがあったので書く。
①女性トイレのトランスジェンダー利用のこと
後半、大石氏は「トランスジェンダーの人が女性トイレに入ってこられたら怖い」という発言を(SNSで)した人物に対して、「お前の方が怖いって」、「気にするな」と言っている。
現在、トランスジェンダーについてある程度ネットで調べたことがあるひとなら「トランス女性は女性です」というフレーズを目にしたことがあると思う。
トランス差別をしていないとみなされるためには「トランス女性=女性」という等式を前提として話をしなければいけない。
だから、女性トイレや他の性別に分かれたスペースについてトランス差別と取られないような発言をするとしたら、「お前が怖い」「気にするな」と怖がったり気になったりする女性個人の問題とすることはある意味「正解」と言える。
しかし、本当に「正解」なんだろうか?
今は、女性トイレなどの女性専用スペースは現実的には「女性に見える」人が使うものである。今のところトランスジェンダーの存在についてはあまり考えられておらず「身体的女性(いわゆるシス女性)に見える人」が使う、と思われている。
身体的女性の人に見えない人が使用しているのを見たら、警戒し、場合によっては助けを求めるかもしれない。
しかし、このままトランスジェンダーのことが世に知れ渡り、「トランス女性がトイレなどの女性専用スペースを使うことに拒否反応を示すこと=差別」の考えが広まれば、スペースを使う基準は「トランス女性に見える人」が使うことになる。性自認は他人から見えないので、見えるものでしか判断できない。
ツイッターを見ていると「トランス女性とシス女性の区別はつかない」「トランス女性はもう既に女性専用スペースを利用している」と言って、トランス女性の女性専用スペースの利用は問題ないとする人が見られる。しかし、それは今のところ「シス女性(身体的女性)」に見える人が使っていることがほとんどだろう。
いくら「シスもトランスも同じ」と言っても、一般的に人が「身体的に女性の人」と「トランスジェンダー含む、性自認が女性の人」とではイメージする女性像が違うと思う。「トランス女性」のイメージの方が「身体的女性」のイメージよりもより範囲が広くなるだろう。
女性トイレなどに、身体的な女性には見えないが、トランス女性にギリギリ見えなくもない…でも、男性の可能性が高い、みたいな人がいたときに、助けを求めて良いのか…と悩むようになるかもしれない。
間違えた対応を取ってしまうとトランス差別とされてしまうリスクを負わないといけない。
女性専用スペースを利用する方は入りやすくなるだろうが、そこには「男性自認で身体的にも男性だけど、女性に見せることができる人」も含まれる。
「女性に見せることができる」のも身体的女性よりもトランス女性に見せる方が容易だと思って実行する男性もいるかもしれない。
そういった可能性のことを考えるだけでも「トランス差別」とされる現状なので、なかなか難しい。
多目的トイレなどの性別に関係なく使えるスペースが増えることが一番良いのかもしれないが、すべて共用のスペースにしてしまってはそれはそれで問題がある。
昔は共用が多かったのが、男性、女性と分かれたのは女性が安心して利用できるためという理由がある。
いろいろ書いたが、私はトランス女性が女性専用スペースを利用するなとは言えない。
よだかれん氏などのトランス女性個人に対して女性専用スペースの利用をやめろ、などと言うのは人権侵害だと思う。
「トランスジェンダーの人が女性トイレに入ってこられたら怖い」というのも、基本的にはSNSで言わない方が良いと思う。
しかし、「トランス女性は女性だから全員女性トイレを利用できる」という考えに賛同できない自分もいる。
「怖いと思う」「気にする」というのは自分の身を守るために必要な行為だと思う。
それを自由に表現しているとトランスジェンダーの人を傷つけることになるのかもしれないが、全くそうするなというのも難しい。
「怖いと思う」「気にする」ことをしなくて良い、被害に遭う心配のない社会が一番理想だが…
大石あきこ氏については、問題を個人に押し付けるのはやめて欲しい。
女性トイレなどの女性専用スペースについてはそうしないと(女性個人に「気にするな」「差別だ」と言わないと)語ることがもはや難しい(それしか「正解」にならない)話題になっているので、話題にして欲しくない。
そんな風になっていること自体を話題にして欲しいと思うが、それは大石氏ができることではないだろうし、して欲しくない。
➁全体的に言葉が乱暴なこと
れいわ新選組のYoutube動画は山本太郎代表のものしか見ていなかったが、初めて大石氏の動画を見て、言葉の乱暴さに驚いた。
なぜこんな言い方をするんだろう?と思うくらい強い言葉を使っているところがあった。
一つ例を挙げると、よだかれん氏について「多様性枠の人は積極財政ではないと思い込んでいる人がいる」というところで大石氏が「かわいそうな人たちなんですけど」と言ったところだ。
「思い込んでいる」というだけで「かわいそうな人」と言うのはキツ過ぎるのではないか? 人はひとりひとり考え方も違えば理解力も違うのに…
間違った理解をしている人がいたら、何回でも説明して理解してもらえば良いのでは?と思ってしまう。
もちろん、理解できる人にだけ理解してもらえれば良いと考えているのだったら別に良いが…それでは多くの人に支持されないだろう。
大石氏は橋下徹氏とのやり取りや、ツイッターなどのSNSでのやり取りで、自分と同じ意見の人=味方、違う人=敵と考えているのではないか?と思ってしまった。
(SNSを使っているとどうしてもそういう考え方になりがちだと過去の私の経験から思う)
対立せざるも得ない場合もあるだろうが、基本的に政治はみんなが幸せになるためのものなのだから、無用な対立はすべきではないと私は思う。
①で取り上げた「女性トイレをトランスジェンダーの人が使うことについて反対している人」についても、大石氏は「自分だけが犠牲者なんだと思っている」「余裕がない」から「積極財政で所得を上げよう」と言っている。相手が何を言っているのかを聞かずに、自分の党の政策に引き込んでいる。
自分と違う意見を持つ人を勝手に「こうだろう」とレッテルを張り、勝手に見当はずれの、(自分の党の理念に合う)自分に都合の良い解決方法を押し付けるのは信頼できない行為だ。
SNSでのやり取りではそういう強気なやり方の方が良いのかもしれないが(例えばツイッターでは、断定的な発言で自分は正義で対立意見は敵だと主張し、RTやいいね数を稼いだ方が、聞くべき意見と見なされる傾向がある)、動画で見るとかなり乱暴な印象を受ける。
大石氏は変えるつもりはないかもしれないが、考えて欲しいと思った。
「生きづらさを抱える人(発達障害の可能性のある人)は子供を産むな」という意見を見て思ったこと
自閉症啓発デーが4月2日にあり、ある漫画家が描いた漫画に結構な反響があって、私はそれを見てしまった。
ニュースを見ただけでは穏やかな反応しかなかったように見えるが、ツイッターではかなりの否定的な引用ツイートがついている。
私がここで取り上げたいのは「発達障害の人が子供を産んだのだから自業自得というか子供に同じ苦しみを与えるなんて…」みたいな意見のことだ。
この人は出産した当時自分を発達障害だという自覚はなかったようだが、生きづらさを感じているだけでも子供を産んだらダメというか、同じ特性が遺伝することを自覚しろ、という意見が多い。
なぜ取り上げるのかというと、私と似ている部分があるからだ。
前回こんな記事をのんきに上げてしまったけど、私の境遇と水谷アスさんの境遇はにていなくもない(私は多くの人に読んでもらえる漫画なんて書けないが…)
似ているという部分は「生きづらさを感じていた女が複数子を産み、その子に障害があった」という部分。
発達障害の傾向がある人…生きづらさのある人は子供を産むな、というのは別に新しい意見ではなく、ツイッターではよくある意見だ。
(10年くらい前はまだ遺伝のことはあまり言われていなかったから、ここ数年の傾向だとは思う)
よくある意見だから気にしてはいけないのだが、やっぱり心に来るものがある…
ツイッターは極力見ないようにしていたのに、見てしまった私の問題でもあるんだけど…
もちろん、落ち込んでいても仕方ない。
人に理解されにくい選択をした人は、他人から何か言われても気にしてはいけないし、たとえ傷ついたとしてもそのことすら面白がれるくらいに強くならないといけない。
人と違うということは理解されにくいということで、もちろん理解を求めていかないといけないんだろうけど、理解をされないことが当たり前と思っていないといけない。
(それでも、やっぱりここ10年間だけでも発達障害についての理解はすごく進んだと思う。理解を求めてくれた人たちのおかげで、私たちは生きやすくなったんだとは思う)
私と子供を幸せにできるのは私だけだという覚悟でやっていかないといけない。
理解されないことを当たり前に思ってやっていたら、理解してくれる人がいたときに嬉しくなるし、結構そういうことはあるものだ。
…という自分へのアドバイス。
今の時代、一般的には親と子は別人格であるという考えが浸透している。
昔は親子心中とかもただの悲しい話と考えられていただろうけど、今は欧米みたいにただの子供にたいする殺人と考える人も多いだろうと思う。
親が勝手に子の未来を悲観して不幸と決めることはいけないと思っている人は多いのではないかと思う。
でも、障害のある(可能性のある)人が子供を産むことについての話になると、障害のある子供=不幸と決めつける人が多い気がする。
子供のために子供を産まないなんて理屈はありえなくて、どこまでも親自身の選択でしかないと思うのだが。
しかし、私は分かっている。障害のある可能性のある子供を産まないということが良いことだという考えは簡単に否定できるものではないことを…
たとえば、アイスランドはジェンダーギャップ指数世界第一位で、男女平等、高福祉の国だが、妊婦の多くが新型出生診断を受け、陽性が判明すると100パーセントが中絶を選ぶらしい。
小さな国特有の事情もあるとは思うが、平等意識がありそうな国でも「障害のある子供は生まれない方が良い」という考えは高く浸透している。それは悪い考えではないから、なんだろうか?
…ここまで書いて思ったけど、親ガチャってことばも生まれたし、障害関係なく、子供への幸せの道筋が確実に描けるような状態でないと産むな、という考えが全体に広がっているというのもあるかもしれない。
その中でも、障害というのは分かりやすく「幸せを阻害する」ように見える要素だから取り上げられがちなのかもしれない…
とはいえ、「障害があるからと言って子供を産んではいけない」という考えは優生思想だから、認めてはいけないとは思う。
旧優生保護法の被害者みたいな人が再び出るのは絶対にいけないと思うし、そういう時代が再び来ないようにしないといけない。
…しかし、私自身のことを思うと、やっぱりスッキリしない。スッキリしてはいけないような気がする。
だから、ツイッターで否定的な意見を見たら凹むし、見ないようにしているのを逃げみたいに思ってしまう(でも見ないようにしている)
何が言いたいのかわからない文になってきたけど…
今の社会は、障害を持つ人、障害のある子を産む人に厳しい社会であることは確かだ。
今後、それが変わるのかも不明だ。
そんな社会で、「生きづらさを感じていたのに子供を産んでその子にも診断が下りた」私のような人は愚か者なのかもしれない(水谷アスさんが愚か者と言いたいわけではないです。愚かなのは私だけ)
それでも幸せだし、未来も幸せになる、と言える強さが必要だと思う。