FUCK THE TERF のプラカードが公式にOKとなったこと、10月14日の荻上チキ・Sessionでの清水晶子氏の発言についてなど

 

TERF(トランスジェンダー排除的ラディカルフェミニストの略だが今の日本では少し異なる意味で使われることが多い言葉)に関する、私が気になっていることをいくつか書いていく。

私はTERFと呼ばれる考えを持つ人間であるから、人によっては不快な思いや負担を感じるかもしれない。

 

①FxxK THE TERFのプラカードを「全く問題ない」とした東京トランスマーチの主催であるTransgender Japan

 

11月12日に行われた東京トランスマーチ2022において、「FUCK THE TERF」という文字の書かれたプラカードを持った人がいて、写真を撮られていた。
そのことについて批判があり、主催であるTransgender Japanが見解を出した。

 

march2022.wp.xdomain.jp

 

結論から先に言えば全く問題ありません。これは、特定の個人・団体・集団などへの攻撃ではなく『私たちを執拗に差別・排除しようとする思想』だからです。私たちは私たちを社会から排除しようとする行為に抵抗します。また、私たちを排除しようとする行為に抵抗する権利を有しています。

 

「全く問題ありません」ということだが、そのことについて考えてみたい。

 

(1)FUCKという言葉の意味について

 

FUCKという言葉は良くない言葉(気軽に口に出してはいけない言葉)ではある。

FUCKという言葉には確かに性交という意味がある。とはいえ、性交の意味で使うことは少ない。「くそったれ」「畜生」みたいな意味がある。

 

ejje.weblio.jp

 

「FUCK THE TERF」の意味は性交を意味するよりも「くたばれTERF」といった意味だろうとは思う。
しかし、辞書で言葉を引くと一番に出てくるのが「性交」の意味なので、FUCKという言葉になじみがない日本人が辞書を引くことで「性交」の言葉を見て強い印象を心に残すかもしれない。

私もそうだった。中学生のときに海外へ行く機会があったときに、現地の生徒たちが「FUCK」という言葉をものすごい頻度で使っていて、「何だろう?」と疑問に思い調べたら「性交」の意味があってショックを受けてしまった。


私が世間知らずだったのだろうが、当時の私は世の中で女性がレイプされる事件や、レイプする対象として男性に見られることがすごく多いという事実をやっと認識し、自分もその一人となる可能性があるのだということを自覚させられてきた時期だった。
そのことについて世間は全然重要に考えていないし、逆に被害者の方を責めることが非常に多いことも当時やっと知った。


私がそういう時期だったことがあって、「性交」の意味の言葉が海外で当たり前に頻繁に使われていることに私は敏感になってしまった。
世間で性暴力、性被害がとても軽く扱われていることと、「性交」の意味を持つ言葉が気軽に使われている状況に関連性を見てしまった。現地の生徒たちからしたら笑い者かもしれないが…


それは私が日本で生まれ育ち、日本語しかほとんど触れてこなかった人間だったからで、英語を主に使用する人たちの中で生まれ育ち、英語に主に触れてきてきた人間にとっては「FUCK」は全く違う印象を持つ言葉なのだろうとは思う。
同じように日本語しかほとんど触れずに生まれ育った人の中でも私のようなナイーブな反応を示す人の方が少ないのかもしれない。

しかし、「FUCK」がいくら「性交」の意味で使うことが少ないといっても、英和辞書の第一の意味は「性交」であることは意識するべきことだと思う。
日本で行われたトランスマーチで「FUCK THE TERF」という言葉を掲げることで、掲げた本人の意図とは別の、より強い印象を感じた人間がいるかもしれない。

 

(2)黙認することと公式にOKを出すこととは違う

 

トランスマーチに「FUCK THE TERF」という言葉を載せたプラカードを持って歩く人がいたこと自体は、強い表現に感じる人もいる可能性はあるが悪いとは言えないと思う。

しかし、トランスマーチの主催であるTransgender Japanがわざわざ見解の記事を出してまで、「全く」という強調表現までつけてまで「問題ない」と認めることは、私は良くないことだと思う。

TERFという女性が多く含まれる集団に対し、「性交」の意味がある言葉をぶつけることは、人によっては強い表現に思うだろうし辛い思い出を刺激することにもなるかもしれない。他の表現にしたら傷つかなかったであろう人々が傷つくことになるかもしれない。
そのようなことを「全く問題ない」とすることは、私は良くはないと思う。

多くの政党や団体が賛同を示し、有名人も多く参加したトランスマーチが、ある種の人間にとっては堂々と強い表現で傷つけられることが許されている場となってしまう。

確かに、私たちをTERF=執拗に差別・排除しようとする思想であるならばFUCKという強い言葉を掛けられても構わないという考えも妥当かもしれない。
実際TERFという言葉は「執拗に差別・排除しようとする思想」を表現する言葉なのだろうか?

私が見る限り、TERFという言葉を思想に対して使う人は多くない。ある種の人間に使われることが多い。

前に書いたように、TERFを自称する人間はまずおらず、他人に呼ばれる名となっている。

 

hananomemo.hatenablog.com


TERFと呼ばれる人たちはトランスジェンダーに対して、他の女性たちとは違うということを言ったり、女性用スペースに入ってこないで欲しいということを言ったりする。

トランスジェンダーの人たちの中にはそのような発言や思想がTERF、「私たちを執拗に差別・排除しようとする思想」に見えるのかもしれない。TERFという言葉はほとんど思想ではなく人間に掛けられていると思うが…
だから、FUCKと呼ばれたり他の罵倒語を掛けられても仕方ないという理屈なのかもしれない。


しかし、TERFと呼ばれる人間の考えは「執拗に差別・排除しようとする思想」だけではないと私は思う。FUCKと言われても仕方ない思想ではないと思うし、そう言われても仕方ない人間ではないと思う。

 

次に、10月14日の荻上チキ・Sessionにおいて気になった発言について書く。


②10月14日の荻上チキ・Sessionにおいての「特集『トランスジェンダー国会が初開催~注目される“トランスジェンダー問題”とは』高井ゆと里×清水晶子×荻上チキ×南部広美」における気になる発言について

 

荻上チキ・Sessionの10月14日放送分において、「特集『トランスジェンダー国会が初開催~注目される“トランスジェンダー問題”とは』高井ゆと里×清水晶子×荻上チキ×南部広美」という特集が放送されていた。Podcastでも聴くことができて、興味を持った私はSpotifyで聴いた。

 

TBSラジオ「荻上チキ・Session」

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そこで、トランスジェンダー国会のことや書籍「 トランスジェンダー問題」についてなど、トランスジェンダーに関わる話題について群馬大学准教授の高井ゆと里氏と東京大学教授の清水晶子氏がゲストとして話をした。

大体は私も賛同できる話題だったが、清水晶子氏の発言で引っかかる部分があったので、そのことについて書く。


(1)清水晶子氏の発言


後半40分前後のところで、話題は書籍「トランスジェンダー問題」でも取り扱われているトランス排除的なフェミニストの話になる。

そこで清水氏は、1970年代からトランスジェンダーフェミニズムの関係が何度も議論になっていたがフェミニズムトランスジェンダー排除の意見に反対してきたこと、1980年代には収まっていたはずのトランス排除的な言説が2010年代から再燃してきたことを話す。

ところが、清水氏は「この話はしたこと、過ぎたことであって、フェミニストとしてはここにいつまでもとらわれてはいけない」と話を止めてしまう。代わりに宗教右派の話を始める。

日本だと、非常にトランス排除というのを陰に日向にすすめてきた集団として、それこそ旧統一教会というのがもう分かっていて、そういう宗教右派だったり道徳右派だったり保守派だったりするのが非常に攻撃しているところにフェミニストが使われてしまう。
その人たちは別に女性の権利とかって思っているわけではなくて、より広いいろいろな利害関係のために全部…セクシャルマイノリティも女性の権利もあるいは人種的なマイノリティの権利もまとめて潰していこうとしているのに、そこにフェミニストが乗ってしまうことに今の段階だとなっていて、それは非常に危惧すべきことだと思っています。


1980年代には収まっていたはずのトランス排除的言説がなぜ2010年代に再燃したのかということには触れず、宗教右派の話でまとめてしまう。
2010年代のトランス排除的言説の再燃が全て旧統一教会などの宗教右派たちの働きによるものだと清水氏は思っているのだろうか?私はそうは思わない。

トランス排除的なフェミニストがどうしてそういう考えを持つようになったのかについては見ないことにしよう、旧統一教会宗教右派といった、多くの人々に明らかに悪であるという印象を与える言葉を用いてトランス排除的なフェミニストも明らかな悪であり聞くべき意見などない存在と思わせようという清水氏の意思を感じる。

トランス排除的とされる女性たちの意見は清水氏のような人には聞かれることはない。
笙野頼子氏が苦渋の判断で山谷えり子氏に投票すれば、それだけを見て右派だ旧統一教会だと言われる。なぜそういう判断をしたのかという事情には誰も触れない。

私は旧統一教会宗教右派などに私は取り込まれたり利用された覚えはない。旧統一教会宗教右派は基本的に全女性の権利を奪おうとしていることくらいは分かる。
だから乗りたくない。だからといって他に乗れる場所もない。それでも、私は譲れないものがあるからトランス排除的と言われる人間でいるしかない。

(2) 高井ゆと里氏の発言

高井氏はノンバイナリの自分がフェミニズムに救われてきたことについて話す。性別というものが考えられるものだという考え方に救われたと言う。そのフェミニズムが「あからさまに誤った主張」にいっていることを高井氏は指摘する。

 

再びフェミニズムがそうして性別というものは人間が仕組みとして回しているものじゃないんだと、あるものなんだ、そこから誰も逃れられないんだ…先ほど本質主義という指摘がありましたけどそこにもう一回回帰してしまって、そうした与えられた男性や女性っていうのはのがれがたく、人々に同じ経験をもたらすんだ、あからさまに誤った主張に排除的なフェミニズムがいっているのはとても残念なことだと思っています。

私は高井氏の主張に私は全面的に反対しているわけではなく、性別には人間が仕組みとして回している部分もあるとは思う。

ただ、性別のなかにはただあるもの、生まれたときから身体の特徴として男性と区別できるもの、そこから逃れることができないとは言わないでも逃れることが難しい部分もあると私は思う。

すべての女性が同じ経験をすることはなくても、身体的に女性である人の多くが経験すること、そうでない人が経験することが少ないことは存在すると思う。女性は生まれながらに(身体的に)女性であるということを本質主義であると否定することで、女性として生まれたことの困難について語ることが難しくなる可能性がある。

女性について「身体的に女性である」と医師に判別された人とそうでない人は違うと言えることによって、女性が自分が属するカテゴリの身体と他の身体には違いがあるんだと認めることができるようになる。それによって、自分の困難を認めたり周りに伝えやすくなることがあると私は思う。

高井氏は身体が女性(誕生時にそう判別された)ことよりもジェンダーアイデンティティが女性であることの方を重要視している。トランスジェンダーの人が様々な手段で女性に身体を近づけていることを指して「女性の身体という言葉が何を指すのかはっきりしない」と言ったことを放送の冒頭で言っている。

ホルモンの摂取や整形手術などで女性の身体に近づけたトランスジェンダーの身体はどちらに分類されるのかという問題提起をしているのだが、生誕時に女性と判別された身体というものがあることを軽視する発言だと私は思う。

高井氏のブログにおいても、こういう記述がある。

トランスジェンダーは、「誤った談義(おしゃべり)」のネタにされ続けています。日本でも、ここ3~4年で急に。これまでトランスのことなど全く興味もなかった人たちが、急に騒ぎ立てて、社会のすき間を生きさせられてきたトランスたちをすき間から引きずり出して、本当は女性アスリートや女性受刑者の生活など興味もないくせに、「トランスジェンダー問題」に限ってその話題に飛びつく人たちがいます。

 

私はスポーツを見るのが好きではないが、それでも女性スポーツとトランスジェンダーについてのニュースには興味があるし意見もある。そのことについて「本当は興味もないくせに」と言われることに怒りを感じる。

身体女性は身体男性よりも体格的に劣ることが多く、そのせいで不本意な扱いを受けたり、身体男性のように動くことができずに悔しい気持ちを抱くことがある。

私自身、小学校高学年の頃はクラスで一番腕相撲が強くて男子達に尊敬の眼差しで見られていたが、年を取ると男子との違いを思い知ることになった。

それとは関係なく運動は元々苦手だし嫌いだからスポーツにも興味が持てず、オリンピックやワールドカップのときには居心地が悪い。

それでもスポーツを楽しんでいる女性をテレビなどで見ることがある。「同じ女性なのにすごいな」と励まされることがある。
女性がスポーツをする権利は元からあったものではなく、昔闘ってその権利を勝ち取った女性がいるからだ。力の差がある男性と混ぜられて競争させられると女性であることを意識せざるをえないが、女性という枠組みの中で競争することで萎縮することなく女性は自分の力を発揮することができる。

そういう場があること、そこで活躍する女性がいることに私は励まされる。それは同じ女性の身体を持って生まれた人であるという前提があるからだ。
トランスジェンダー女性が活躍していても同じ思いを抱くことはできない。生まれたときに男性と判別される身体を持っていた人を女性の身体を持つ人とスポーツにおいて同等だとは私は思えない。

トランスの人からしたら女性の身体、男性の身体なんてはっきりとしたものはないし、私が女性スポーツ選手を見て抱く思いも偏見でしかない、と言いたいのかもしれないが、私からしたら日々その存在を意識し、また意識せざるを得ない状況で生きているから意見を言いたくなる。

女性受刑者についても同様で、そもそも犯罪者には男性が多いし特に性犯罪は男性から女性に対してされるものが圧倒的に多い。また刑務所内強姦事件も国内外で起こっている。

囚人という立場とはいえ同じ女性として罪を償うこととは無関係の性犯罪によって傷つけられること、自由がない代わりに保護されているべきである刑務所内ですら性犯罪が起こってしまうことに私は心を痛める。そういったことがないようにして欲しいと同じ女性として思う。

もちろんトランス女性も性犯罪に遭うべきではないが、他の女性と同じように扱うことを問題ないとは私は言えない。

 

今まで興味がなかったとしても、トランス女性の人がスポーツで女性競技に参加したり、そのことに反対した者が差別者と言われたり、トランス女性の人が女性と同じ刑務所に入ったり、そこでトラブルが起きたり、というニュースを見てしまえば興味を持たないことは難しい。
トランスジェンダーに興味があるからではなく、私の属するカテゴリ-女性…身体女性に関係しているからだ。

私には譲れないものがある。次はそのことについて書く。


③TERFの意見~女性用スペースのこと、女性の身体のこと

 

私が譲りたくない思い、それは女性(身体女性)が自分のための言葉を失わないことだ。
TERFと呼ばれることで、その言葉はTERFなんだ差別なんだと思うことで、女性が自分を語るための言葉をなくしてしまってはいけない。

 

(1)女性用スペース

 

主張することでTERFと呼ばれる意見は色々あるが、たとえば女性用スペースについてのものがある。

その意見の中にも幅があるが、それに対するトランスジェンダーが女性用スペースを利用しても問題ないと考える立場の人はトランス女性が女性用スペースを使えなくすることで性犯罪を減らす根拠はないと言う。

実際に海外ではトランスジェンダーの人も当たり前に女性用トイレを使っていても犯罪は増えていないというデータがあると言う。

女性トイレからトランスジェンダーを排除することには根拠がないという理由で、トランスジェンダーの女性利用を受け入れる以外の意見は差別される。しかし、私はそれを差別とすることはトランスジェンダー女性以外の女性にとって危険な考えと思う。

そもそもそのトイレの置かれている状況や国の違いもあるので、日本で同じように犯罪が増えないという保証はない。

 

さらに、女性用スペースについて実際にそこを使っている女性が意見を言えなくなる、トランス女性が女性用スペースを使っても良いと言わないと差別主義者になるという状況が影響を及ぼすこともあると思う。女性が自分の安全のためのスペースについて自分で考えて自分の言葉で伝えることを難しくするからだ。

もともとは女性用トイレは昔はなくて、共用トイレしかなかった。そこで女性が性被害に遭うことで、女性トイレは権利として獲得された。

性的な被害に遭いやすい女性は女性トイレを使うことで安心感を感じることができる。男性が女性トイレに侵入する事件は多いが、入りにくい女性トイレの位置を考えるなどでさらに安心感を高めることもできる。
トランスジェンダー女性も女性トイレを使えるという考えが浸透し、さらにそれに対して慎重な意見を表明した女性がTERF、差別主義者と呼ばれる社会になったときに(トランスジェンダー以外の)女性の安心感に影響が出るだろう。

「何も変わらない。男性に見える人が女性トイレにいたら女性は通報をすれば良い」という意見も見るが、トランスジェンダー女性と男性を見分けなければならないのは通報する際に負担になってしまうだろう。

「通報すれば警察や施設の管理者、周囲の人に助けてもらえる」という安心感があるから通報できるが「トランスジェンダー女性を通報した差別者と非難される」リスクがあれば通報するハードルは上がってしまう。

トランスジェンダーの女性トイレを使う権利を守ろうと主張する人は通報すること=差別者ではないと考えるかもしれないが、世間一般の人はそういう複雑な理解はできない人も多いだろう。
なんとなく「トランスジェンダーの女性は女性トイレを使う権利がある」という意識を世間の空気の変化で持つことになった人は「トランスジェンダー女性に見える人がトイレを使っているのを通報した女性」を見れば「トランスジェンダー女性のトイレの利用を排除する=この女性は差別している」と考えることになる可能性がある。
そういう単純な理解しかできない世間一般の人々の中で、トランスジェンダーのトイレ利用についての理解が変われば、「女装した男性に見えるが、トランスジェンダー女性の可能性がある人」を通報することが女性にとって困難になる。

トイレばかり言ってしまっているが、私にとっては重要なことなので言わざるを得ない。女性がトイレを使うことだけではない問題があるからだ。
それは女性が自分を主体として考えるということだ。

トイレを安心して使えるためには、まず女性が自分がトイレを安心して使っても良いと考えることが必要だ。
男性からの性被害を警戒して生きる日常を送る女性にとっては、男性を避けること拒否することで、トイレを安心して使えると考えることができる。

女性トイレを使うのは私であり私が意見を表明することができると自分を主体と考えることで安心感は持てる。トランスジェンダー女性の女性トイレ利用の権利を主張する人がそれに反対する人は差別者だと主張されると、トランス以外の女性は女性トイレの利用についての意見を主張することが難しくなり自分を主体と考えることが難しくなる。

私はそうなってはならないと思っているから、女性はトイレのことについて話すことをためらってはいけないと思う。


(2)女性の身体

荻上チキ・Sessionで高井氏はトランスジェンダーについて「身体は男性で心は女性」(トランス女性の場合)の表現について実情に合ってないと言っている。今はトランス女性または男性の身体を男性であるまたは女性であるということは言ってはいけないこととされている。
「割り当てられた身体」というのが正しいと言われる。
もちろんトランスジェンダーにとっては性自認ジェンダーアイデンティティこそが自分の性別であるから、生まれたときに身体の特徴から判別された性別をそのまま受け取りたくないという気持ちはあるのだろう。トランスジェンダーじゃなくても受け取りたくない人はいるかもしれない。

ただ、その気持ちとは別に、身体の性別は存在している。女性よりも男性の方が体つきが大きくしっかりしていることが多いし、多くの女性は生理があったり、性行為をすれば妊娠の可能性があったりする。

個人差とは片付けられない大きさの違いがある。身体的な女性、男性というものがないと言ったり、曖昧だと言ったりすることで女性が身体的な女性の特徴があることにマイノリティ性がないとされてしまう。
力が弱かったり、生理があったり、妊娠の可能性があることが人それぞれの個性の範疇になってしまう。

トランスジェンダーの権利を主張する人の中には、身体的な女性、男性の区別はつけないようにするが、シス、トランスの区別ははっきりさせる人がいる。シスはマジョリティ、トランスはマイノリティという考えなので、女性の身体を持つ女性はマジョリティの特権があるとされるし、男性の身体を持つ女性はマイノリティであるとされる。

その構図がすべて間違いとは思わないが、女性の身体を持つことのマイノリティ性は隠されてしまう。生理や妊娠について語ることがある種の特権として捉えられることにつながってしまう。そうなると、生理や妊娠があることで困難を抱えたり、弱い立場に置かれたりすることを語ることは難しくなってしまう。

生理や妊娠が特権になってしまうと、それがない人がそれについて口を出すことが悪くないことになってしまう。最近だとある企業が生理中の入浴時に使う赤いバスボムを発売して、生理中の女性の気持ちを分かっていないという意見が沢山寄せられたことがあった。

prtimes.jp


生理について語りやすくなることは良いが、生理を経験しない人が語ることにはもっと慎重になるべきと思う。バスボムについては女性も開発の場にいたようだが、もっと丁寧に複数の女性の声を聞くべきだったのではないだろうか。

私は別に赤いバスボムを生理の日用に発売することが悪いとは思えないが(それが嬉しいという人もいるかもしれないし)少しずれた商品であることは確かだとは思う。


生理のような女性の身体にまつわるものは商売になるから、フェムテックという言葉をよく聞くようになったのだろう。
ただ、女性の身体は商売の種だけではないし、商売にならないところでも声は聞かれなければならない。
そのためにも、女性の身体の持つマイノリティ性を理解されなければならない。

身体的な女性というものはあるということ、その存在はマイノリティであることを確認しなくてはならない。それを語るための言葉を手にしていなくてはならない。

まとめ

女性…特にTERFと呼ばれる私のような女性が持つ考えについて書きたいことを書いた。

女性という言葉にはジェンダーアイデンティティが女性であることも含まれるかもしれないが、身体的に女性であるという状態も指すことを忘れてはいけないと思うし、身体的に女性であるという意味を消そうとする動きに反対していかなければならない。

トランスジェンダーの人の中に、トランスジェンダーという存在があることに救われる人がいるように、身体的女性の人の中に、身体的女性という存在があることに救われる私のような人がいる。
女性の身体を持つ人がいて、その人の多くが経験することがあること、その経験があっても他の人間と同じように生きる権利があること。
その権利の一つには、性暴力に遭いやすい女性でも安全に排泄や着替えなどができるための女性用スペースがあることも含む。もちろん、トランスジェンダーの人も同じ権利を持つはずなので、折り合いをつけることは必要とは思うが、そこで身体的女性の意見が無視されるべきではないということだ。

女性差別は「全員殺してしまえ」とはならない差別だ。そうではなく、最大限利用できるように女性の尊厳を効率よく削る形で現れるのが女性差別だ。
そのために「良い女性」「悪い女性」「正しい女性」「正しくない」女性を分けていく。その基準は時代によって変わる。

昔は女性は結婚して子供を生むように圧力を掛けられていたし、家に縛られていた。

今は以前と比べれば結婚したり子供を産むことへの女性の締め付けは緩くなってはきている。
ただ、女性も男性と同じように賃金労働をすべきとされるようになった。今は年金第3号被保険者となる主婦に対する批判が強くなり、自分で年金を払える年収を稼ぐべきという意見を特にネット上ではよく見る。

子供を産み家事育児をするだけではない基準を満たさなければならない。女性が働けない(賃金労働ができない)などとは言ってはならない。女性が身体的に弱いということを主張すると女性からすら冷ややかな目を向けられる。


また、トランスジェンダー女性はマイノリティだということは「正しい」が身体的な女性がマイノリティだと言うことは「正しくない」とされる。

 

そういう風潮に私は抗いたい。
私のような思いを持つものは多くはないのかもしれない。それでも、私は私の身体、私の思考、私の言葉を持っていたい。
そんなことを最近のTERF関連の話題に触れて思った。