【読書感想文】優生思想と「産む罪」について考えた、個人的な記録

この夏、あるテーマで2冊本を読んだ。
そのテーマは完全に私のためのテーマで、一言で言うと、「障害のある人、またはそれに近い人が子供を産むことの是非」である。
もちろん、権利という観点からするとそれは議論するまでもなく「産んでも良い」となる。かつて日本では旧優生保護法による強制不妊手術が行われていた。そのような過去に戻ってはいけない。どんな人間でも子供を産み育てることができるというのは憲法13条で保障された権利だ。

しかし、親の権利よりも子供の幸せを考えるべきと言う考えが昔よりも強くなっている(その風潮自体は良いことだと思う)今、憲法を持ち出して語っても「権利はあるが、良いこととは言えない」となってしまうのではないだろうか?

実際、最近は発達障害は親から子に遺伝する可能性が高いとされるようになり、発達障害のある人やその傾向のある人が子供を持つことが(主にネット上で)非難されることがある。

発達障害のある人やその傾向のある人は働くことに困難がある場合が多く、その一部…特に女性は結婚して専業主婦になることがある。その相手のことを「理解のある彼くん」と表現したりする。
そういう女性は子供を作るな、という意見を見ることが最近多い。子供に遺伝したり、子育てに向いていない親に育てられたりして、苦労をかけることになると言われる。

それは、昔は(数年前までは)ほとんど見なかった意見だ。
なぜそう言えるのかというと、私も同じような境遇にあるからだ。発達障害の診断は受けていないが、その傾向はあると自分では思っているし、生まれた子供に障害がある。

「子供を作るな」と言われても作ってしまった(自分では「作ってしまった」という後悔はないのだが、客観的に見たら悪いことをしているようになってくるので「作ってしまった」と言わないといけない気になってくる)私はどのような心持ちで生きていったら良いのだろうか?

その答えを知りたくて、この夏は2冊の本を読んでみた。

 

 

きっかけ

今年の7月で相模原障害者施設殺傷事件(やまゆり園事件)が起こってから6年になる。

19人が死亡、26人が負傷するという、凄惨を極めた事件であるが、ニュースの一般人による感想は、ほかの大量殺人事件と比べると少し違う雰囲気になる。ほかの事件は大体「被害者は死ぬべきではなかった。加害者は許せない」という意見で一致するが、障害者を狙ったこの事件場合、その意見だけに止まらないところがある。
今年、怖いもの見たさで人の感想をいくつか読み、その趣旨が6年前と微妙に変わっているなと私は思った。統計を取ったわけではないが…

6年前はまだ「障害者は生きる価値がない」という事件の犯人である植松聖と同じような意見も結構見られた気がするが、今年はほとんど見なかった。たまたま見なかっただけかもしれないが…
代わりに、「被害者のような障害者を家族も見捨てている、面会にも来ない」という点を指摘して、「家族も世話できないのに、施設で世話仕切れるのか?」みたいなニュアンスの意見をいくつか見た。もちろん、それで「殺されても仕方ない」なんてことを堂々と書く人は見なかったが、含みの感じられる文章はあった。
私が推測する、その含みとは、「家族も世話できない、重度の障害者が施設で介助者に助けられて生きることは当たり前ではない。殺されたとしたら、産んだ者にも責任がある」というものだ。

実際そうなのかは分からない。でも、私はそう感じてしまった。
「産んだ者」として、私はどのような心持ちで生きていけば良いのか、それを知りたくなった。

そういう目的で、「優生思想」がキーワードとなっている本を2冊選び、読むこととなった。

 

1冊目

ソーシャルワーカーではない私だが、「役立たず」について考えたかったので読みたくなった。

私が特に衝撃に感じた点は、「逆淘汰」について書かれた箇所だった。
戦争で徴兵検査に合格する「優秀な」人物は兵役に服し、そのまま戦死してしまったり、そうでなくとも兵に服している間は結婚して子供を作ることができない。
しかし、徴兵検査に不合格となる「優秀ならざる種性」を持った者は、自由に結婚し、子孫を残すことができる。「優秀な」人が子供を作らず、「劣った」人が子供を残していく、ということが「逆淘汰」ということである。

また、貧困層を救済することで、本来抑制されていたはずの結婚やその先の出産が抑制されなくなる。そのせいで「不良な」人間が増えてしまう、ということも言われていたようだ。そのため産児制限の必要性が説かれていたらしい。

 

現在も、「『優秀な』人は仕事に忙殺されたり、キャリアを考えたりして結婚が遅れることがある。また、子供が育つ環境を整えてから産みたいと思案して子供を作るから何人も産めない。逆に、何も考えないような『底辺』の人の方が沢山子供を産む」ということを問題視する意見をネットで見る。
「優秀な」人と「底辺の」人とで産むことの価値が全く違うものとされている。
障害のことは関係ないところで子供はもう差別視されている。

この本を読み、私は障害のある人と密接なところにある、貧困状態にある人のことを考えた。実際、障害のある人はお金を稼ぐことが難しいことがある。
また、障害のある人、貧困状態にある人と近いところにあるのが「馬鹿な人」である。昔は知能指数が低い人は犯罪者になる確率が高いからなくすべきとされていた(なくすべきというのは殺すべきというわけではないが、「標準的な」人を増やすべきとされていた)
実際、(軽度や境界域の)知的障害者が犯罪者となる可能性は標準より高いかもしれないが、それには様々な要因があるのだろうし、そういう人がお金を稼ぐことの難しさ、というのも確実にあるだろう。

 

この本を読んで感じたのは、アメリカにおいて優生思想が盛んだったということである。優生思想といえばナチス、みたいに語られがちであるが、アメリカにあった優生思想も忘れるべきでないと思う。

こんな本も出ている。高価だが、興味ある。

 

とにかく、障害のある人と貧困状態にある人、「馬鹿な人」は密接な関係にあると私は思う。
(「馬鹿な人」というのは知能指数が低い人、知的障害のある人も含むし、そこに当てはまらないが馬鹿だと見なされている人も含む)
「障害のある人は子供を産むな」というのは差別発言になってしまうから言えない人も、「貧乏人は子供を生むな」や「馬鹿は繁殖するな」くらいなら言ってしまう可能性がある。しかし、そういう考え方は簡単に「障害のある人は子供を産むな」となる。「馬鹿な人」の存在の否定は、障害のある人の存在の否定に行き着くと私は考える。

「馬鹿な人を馬鹿にする」行為は非常に危険である。「馬鹿な人」は人格的にも劣っていると考える人を見ることがあるが、それは絶対に間違っている。
たとえば、「馬鹿な人」は想像力が乏しいので優しくすることが難しいと言われたりする。しかし、想像力がどれくらいあるかということよりも、その限られた人それぞれの想像力をどう使うかということが優しくすると言うことなのだろう。
「馬鹿な人を馬鹿にする」行為の危険性は、優生思想のことを考えるときに心に留めておくべきだ。

 

2冊目

作家の雨宮処凜氏が相模原(障害者施設殺傷)事件をテーマに対談したものを集めた本である。

どの対談も読み応えが発見が発見ががあったのだが、私のテーマに合った発見があったのは杉田俊介氏と向谷地生良氏との対談だった。

 

杉田俊介氏との対談

批評家である杉田俊介氏の話で印象に残ったのは、最近の若い人はマイノリティ的な属性を名乗ることが多いという話である。
「コミュ障」「アスペ」「ADHD」など…その理由は、「コミュニケーションが円滑にいく」ということらしい。

杉田 それが一種の防御壁になって、自分を正当化できるし、他人からも攻撃されにくくなるんだと。登山には装備が必要なように、他人とのコミュニケーションという戦場で戦うためには何かしら負の属性があるほうがよくて、そういったものが何もない、たんなるマジョリティは、一方的に責任を求められたり、自己批判を要求されたりして精神的にきつい。だから、多少の誇張を伴う自称だとしてもマイノリティ性を名乗ろうとするんだと。そういう感覚もわかるように思う反面、自縄自縛的になって、やっかいなものかもしれないと思います。

この箇所に注目したのは、「名前のついたマイノリティ」になりたいと思っていた私自身の経験からである。
私自身、コミュニケーションや働くことに悩みを持ち、雨宮氏のように以前は自分がACではないかと疑っていたし(今はそうは思わない)、ASDADHD発達障害ではないかと疑ったこともある。受診はしたが、まだ今ほど発達障害は有名ではなかったからなのか…診断されなかった。
杉田氏や雨宮氏の言うように名前のついたマイノリティ性もないのに、他人とのコミュニケーションに難があったり、「普通の人」のようにフルタイムで働けなかったりする人はただの無能、ただの敗者となってしまう。むしろ、(言い訳になる名前もなく)無配慮な対応で他人を傷つけてしまったり、職場で迷惑を掛けてしまったりして、自分が加害者であるかのように感じてしまう。
自分のことを語ることも言い訳にしかならないように感じ、語れる言葉などない感覚になる。誰かと連帯することも難しい。

しかし、名前のついたマイノリティ性のない者はただのマジョリティなのだろうか?
マジョリティの者は、自分の責任を突き詰めたり自己批判をするための言葉以外に言葉を持ってはいけないのだろうか?

杉田氏はその答えとなる可能性として「キメラ」という言葉を出す。
100パーセントマジョリティでも100パーセントマイノリティでもない、加害者でもなく被害者でもない、「キメラ」的な人間の健全な自己愛の回復の必要性を説く。
「キメラ」である自分の辛さを社会のせいにするだけではない、しかし過剰に自己否定するのではない、そのための思考、そのための言葉が必要なのだ、と杉田氏の言葉で気づかされた。

 

向谷地生良氏との対談

向谷地生良氏も、自分の言葉で語ることの大切さを説く。
精神障害を持つ人たちが暮らす浦河べてるの家では、住人と同じように支援者も自分の当事者研究をメンバーの前でするという。ケアする側とケアされる側という境目をなくしていく。

向谷地氏によると、植松氏は自分のことの語り方が分からなかった人らしい。

私が個人的に印象に残った箇所を引用する。

向谷地 植松被告は、彼の手紙の中で「やまゆり園はいい職場でした」とか、「素っ頓狂な子どもの心失者を見ると笑わせてくれます」などとも書いていたそうです。ある意味あれは、職員に対して自分は敵対していないというメッセージでもあるのかなと思うんですよ。職員を敵に回さず、私が手にかけたのは、あなた方の重荷になっている、社会の役に立たない「心失者」だけですよと。

 

雨宮 なるほど。そこで線を引いて、そこまで献身する必要はないんですよ、と。

 

向谷地 生かすべき障害者とそうでない障害者という線引きをすることで、親や介護者を味方につけるというか、対立軸をずらしているのかなと思います。一種、超越的な視点から社会のジレンマを解決してあげたという、そういうロジックを自分の中で巧みにつくっている。彼は、自分がヒトラーと同じだと言われるのは心外で、むしろ自分はリンカーンと言っているみたいですね。

 

雨宮 奴隷解放の。完全に神の目線ですね。自分が命の選別をしてあげることで、人類が楽になると

障害者についての多くの人の素朴な感情として「子供は可愛いからまだ良いけど、大人は可愛くない」「せめて『自立』してくれないと…」
「大人になっても『自立』できずに他人に世話されるにしても、せめて『コミュニケーション』がとれないと、愛されるような『可愛げ』がないと…」
というのがある。
子供ではなく、「自立」もできず、「コミュニケーション」もとれず、「可愛げ」もなく、むしろ介護者などに迷惑ばかり掛ける障害者は…細かく切り分けて、命の選別することの心理的ハードルを下げていく。

障害者の命全体を否定するような人はなかなかいないが、「良い障害者」と「悪い障害者」の線を引く人ということは当たり前にある。
私自身、子が小さい頃は「せめて言葉を喋ってくれたら…」と思うことがよくあった。
「言葉を喋る」「言葉を喋らない」の間に線があると思っていた。それは植松氏と同じではなくとも近いところにある考えだっただろう。

「内なる優生思想」という言葉がこの本には何度も出てくる。
人は誰しも「神」になるし、その視点で他人や自分を裁く。

もちろん、そのことと実際に障害者を殺した植松氏との間には明確な違いがあるのだろうが、「神」の視点でものを見たり聞いたり、また他の人が「神」視点で語っているのを聞いたりすることで、植松氏が抱いた思想に近づいてしまう可能性がある。

「神」視点のある意味分かりやすい言葉を語るよりも、すぐにスッキリとはいかないが、自分の言葉で今を生きる現実を語っていくことが大切なのかもしれない。

向谷地 (前略)彼はもしかしたら、表向き語られない社会の不確かな現実を取り込んで、ヒーローのようなつもりで”崇高な”役割に逃げ込んでいる。だとすれば、むしろ矛盾や理不尽なことが多い社会で生きている私たち自身がその現実を語り返すことで、彼も変わらざるを得なくなる。「自分は寂しかった」と一言つぶやけるようになるかもしれない。さっきお話をした青年が、私と1年半くらい毎日電話して、ようやく「俺、寂しいんだ」と語ってくれたようにね。

 

まとめ

2冊本を読んだが、私が抱いていた問いである「障害のある人、またはそれに近い人が子供を産むことの是非」への答えはなかった。

しかし、私と同じように選択したことの是非を考えてきた人が多くいることが分かった。
1冊目の本には劣った種を持つ人間が子供を持つことを問題視する国に対して、その国の考え自体を疑問視する人たちがいた。
2冊目には厳しい境遇で答えがでない中、それでも現実に生きる自分を諦めないでいようとする人たちがいた。

発達障害(の可能性がある)のに子供を産んで(子自身や第三者に)迷惑を掛けるなんて…という意見は、第一次世界大戦時のアメリカにおける「貧乏な人が子供を産む(優秀な人は徴兵されて子を残せないのに)のは損失だ」という意見に似ている。

私の悩みは珍しいものではなく、何年も前から多くの人が直面していた悩みだったのだろう。一人で抱えなくても気楽にやっていれば良いのかもしれない。

障害のある人含むすべての人が子供を産む権利は憲法で保障されているのだし、自分がした選択の是非を深刻に思い詰めなくても良いのかもしれない。いろいろなことを言われがちなのはたしかだけど…

昨日も旧優生保護法をめぐる裁判の判決が出た。

www3.nhk.or.jp

貼ったリンク先にはコメント欄がないが、ヤフーニュースなどでは旧優生保護法に賛成する意見が多数を占める。「子供をヤングケアラーにするな」など。障害者は子供を持つなという意見は根強い。でも、障害のある人が子供を持つ権利と子供が幸せに生きる権利は独立して存在するものなのだから、障害のある人の子供が幸せに生きられる社会にするにはどうすれば良いのかを考えるべきだろう。

「きっかけ」のところで書いた「家族も世話できない、重度の障害者が施設で介助者に助けられて生きることは当たり前ではない。殺されたとしたら、産んだ者にも責任がある」という言説は正しいかどうかだけど、どう考えても正しくないだろう。親と子供をセットで考えすぎている。

とはいえ、事件があったやまゆり園とは別の…しかし同じ神奈川県内の施設である中井やまゆり園にも職員による虐待の疑いが出ている。

www.asahi.com

障害者がこの社会で生きることは簡単ではない。
障害のある子供を手放すことは難しい。
虐待されても「仕方ない」「当然だ」みたいな反応も多い。


そんな状況で本を2冊読んだ程度で答えを見つけようと思った私が浅はかだったのは確かだ。

 

それでも思ったのは、他人の言葉は他人の言葉として大切だけど、自分が生きるための自分の言葉が必要だと言うことだ。
他人の言葉によって気づかされることは多い。私自身、他人の言葉が必要だから今回2冊の本を手に取った。
それでも、私が生きるための言葉は自分で探していくしかないのだと思った。

結局、私が生きられるようにしか生きられないし、今やれることをやるしかない。
そんな当たり前のことに気づかされた夏~秋だった。

「TERF」―普通であり、普通じゃない私たちの話

最近の笙野頼子さん周辺の最近の動きについて振り返り、そこから「TERF」について考えてみたい。

最近の動きといっても、素人の私が見た範囲の話でしかないし、そこから考えたことも私の頭で考えたことでしかないので、的を外しているかもしれない。
それでも、私が問題として感じたことを書いてみる。ブログとはそういうものだと思うからだ。

先に結論を書いておくと、普通とされる立場も普通じゃないとされる立場も両方ある社会であって欲しいということだ。
今時、他者に対して「異常」なんていう人はなかなかいないが、「差別者」や「カルト」などの別の言葉で「この人の意見は聞くに値しない」とされることはある。

そういう風に言葉を封じることに私は反対する。「TERF」と呼ばれる私のような女性がいても良いはずだ。

 

 

1⃣笙野頼子さん周辺の動き


①批判者と支持者

(1)批判者

『発禁小説集』を読んで内容の批判をしていた人はほとんどいなかった。

最近は批判されるべき作品は読まないこと、そもそも目に触れさせないことが大事とされている。
笙野さんとは関係ないがシーラ・ジェフリーズの『美とミソジニー』という本もトランス差別的とされ、辻愛沙子さんが代表を務める団体がフェミニズム本を紹介するコーナーを作ったとき、その本棚に『美とミソジニー』の背表紙が見えたということで、多くの批判を受けて謝罪していた。

note.com

『発禁小説集』の内容以外での批判では、笙野さんがネット上に発表した文章で山谷えり子に投票したことやジョージ・ソロスLGBT理解増進法の成立を支援していたとすることについては批判が来ていた。

(2)支持者

しかし、関係者で笙野頼子さんを批判する人たちばかりではない。
作家の町田康さんは「婦人画報」に『笙野頼子発禁小説集』の書評を載せた。
さらに、書評家の栗原裕一郎さんはTwitter上で積極的に笙野頼子さんの味方をしてくれた。
もちろん、関係者だけではない。読者がいる。ネット検索をすれば、『笙野頼子発禁小説集』を読み、高く評価する個人の感想を沢山見ることができる。笙野さんへの感謝の声も沢山ある。

 

栗原裕一郎さんの記事とツイート

(1)笙野頼子さんを「パージ」した人たちを批判

栗原さんは特に力を入れて笙野さんを援護していた。

www.bookbang.jp

このような記事を書き、笙野さんが文壇から「パージ」されている現状を訴えている。

さらに、ツイッターでは「文藝」の編集長である坂上陽子さんや笙野さんを批判する記事を書いた水上文さんの批判をしている。

 

(2)「TERF」と「TRA」の対決を問題視する

栗原さんは笙野頼子さん個人の問題だけでなく、笙野さんら「TERF」と呼ばれる人たちが「TRA」と呼ばれる人たちから批判を受けたり、「差別者」と非難されていると指摘する。

栗原さんは「TRA」の行為の問題を指摘し、「TERF」は「普通の女性」であり、そういう人たちを「排除」してきた「TRA」の「異常性」を訴える。

 

こういうツイートもしている。


「TERF」の主張は「TRA」の主張よりも正当性があると栗原さんは言う。

元論敵であった笙野さんを援護してくれる栗原さんについては感謝したいが、「TERF」は「普通の女性」なのか?というところに疑問がある。それは私が「普通」という言葉に敏感なだけかもしれないが…
そもそも「TERF」と呼ばれることに正当性があるのかというところにも疑問がある。
そういった疑問について考えてみたい。

 

2⃣「TERF」は普通なのか?

①言葉についての疑問(「TERF」、「TRA」、「シスジェンダー」、「トランスジェンダー」)

(1)「TERF」とは、「TRA」とはだれなのか?

そもそも「TERF」「TRA」と呼ばれる人たちは誰なのか?という疑問がある。
TERFはTrans- Exclusionary Radical Feministの略語である。英語でトランス排除的ラディカルフェミニストという意味である。
栗原さんをTERFと言う人をツイッターで見かけたが、栗原さんはラディカルフェミニストではおそらくないので、TERFと呼ぶのは適切ではないと思う。
同様に、「TERF」と呼ばれる人たちの中には別にラディカルフェミニストでない人も多くいる。私もラディカルフェミニストではない。
「TERF」を批判する側も「TERF」はフェミニストにはなれないとして、トランス差別者、トランスヘイター、トランスフォーブなどの名で呼ぶ人もいる。

TRAはTrans Rights Activestの略である。トランスの権利を求める活動家という意味である。
「TERF」と対立する思想を持つ人間である。「TRA」は「トランスカルト」と呼ばれることもある(私はカルトという言葉は軽々しく使うべきではないと思っているので「トランスカルト」という言葉を使うのは良くないと思っている)

「TERF」も「TRA」も誰がそうなのかというのははっきりしない。
それは、自ら「TERF」「TRA」と名乗る人はほとんどおらず、基本的に他者から呼ばれる名だからだ。

(2)他称である名前


「TERF」というのは他者から呼ばれる名であることが多く、蔑称的な使われ方をする。TERF=差別者なので、意見を無視したり、執拗に嫌がらせをすることも許される存在であると見なされる。
「TRA」についても他者から呼ばれる名であり、嫌だと言う人が多い。
嫌だという人が多い他称の名には他に「シス女性」というものがある。「シス女性」は「トランス女性」と対になる概念である。

ちなみに、私も「シス女性」と呼ばれるのには嫌悪感がある。「トランス女性」と対になる概念が必要なのは理解できるのだが、女性の前につく言葉が「トランス」「シス」であることにより、「女性」のベースは「gender identityが女性である人」となってしまっている。それ以外の意味がなくなっている。
私はgender identityが女性だから女性なのではなく、身体的に(生物学的に)女性だから女性なのだと思っている。しかし、「身体的女性」「生物学的女性」とその対になる概念としての「女性」を語ることは避けられているし、こちらが口に出すと差別と言われることがある。

最近も、こういうツイートがあった。「身体女性」「身体女性」という言葉を使うのにはリスクがある。

 

その非対称性、gender identityに比べて身体的な要素が軽視されている状況を否応なく意識させられるので、私は「シス女性」と呼んで欲しくないと思っている。

とはいえ、対になる概念が必要という点では[TERF」という言葉で呼ばれる人間がいる以上「TRA」という対になる言葉は必要だろう。

他称である名前である「TERF」「TRA」と呼ばれる人にも色々な人がいる。「TERF」の方に正当性があると言っても、誰のどの意見に正当性があるのかは不明である。
さらに「TERF」の意見が普通の女性の意見と言えるのかも分からない。

②「TERF」は普通なのか?

(1)多数派ではある「TERF」

「TERF」は普通なのかどうかを考える。まず普通とはどういう意味だろう?
多数派であることを普通と呼ぶなら、「TERF」的な考えはトランスではない女性の多数派ではあると思う。
問題の聴き方にもよるだろうが、例えば「トランスジェンダーの女性(戸籍を変えていない)が女性スペースを使うことを拒否してはいけないと思うか?」と聴いたら、おそらく過半数のトランスではない女性は「いいえ」つまり「拒否しても良い」と答えるだろう。
また、「スポーツの大会の女性部門にトランスジェンダー女性が参加して優秀な成績を収めることをどう思うか?」と聴いたら、やはり過半数のトランスではない女性はネガティブな返事(公平ではない、など)をするだろう。
栗原さんが言うように、そういう意味で「TERF」はトランスジェンダーではない女性の過半数だとは言える。

(2)存在を許されない「TERF」

普通という言葉にはさまざまな意味がある。
例えば私が修理したばかりの掃除機を使っていて、家族に「その掃除機どう?」と聴かれて私が「普通に動くよ」と答えるという会話があったとする。
その場合、普通の意味は「多数派のように動く」というよりは「通常通り」「問題ない」といった意味だろう。

そういう意味で「TERF」的思想、またその思想を持つ者は普通ではないとされる場面がある。
例えば水上文さんの笙野頼子さんを批判する書評は載せられて、それに対する笙野頼子さんの反論は載せられないとする「文藝」という雑誌がそうである。
また「現代思想」という雑誌では、千田有紀さんが2020年に載せた論文が問題となった。その後、千田さんの文章は「現代思想」に載ることはなかった。さらに、2021年11月号に載った高島鈴さんの論稿には、冒頭に脈絡なく千田さんへの批判が載っていた。

femalelibjp.org


私は千田有紀さんの論文については積極的に支持しているわけではないのだけど、ここまで激しく非難されなくてはなれなかったのか?という疑問はある。
2022年5月号には「ハンマーの共鳴性 」(S・アーメッド、藤高和輝訳)という論稿が載ったが、「TRA」は「TERF」と議論する必要はないと読める内容となっている。

「TERF」的な思想、その思想を持つ者は「文藝」や「現代思想」という雑誌の中では存在できないし、間違って存在してしまったら徹底的に非難され、いかに間違っていたかを指摘されてしまう。
そういう意味では「TERF」は決して普通の存在なのではない。
普通という言葉にはいくつかの意味があり、それぞれに対義語がある。私が(1)で示した「多数派」という意味においては普通の対義語は希少である。ここで私が言ったような意味においては普通の対義語は異常である。
「TERF」は希少ではないが、異常ではあるという意味において、普通ではないとされる。

3⃣「TERF」が生き残る道を探る

①「TERF」批判の現状と対抗する道

(1)「TERF」が普通でないと確認しあうことで結束する場がある

「文藝」や「現代思想」で見られたように、「TERF]は普通ではなく、「TERF」は差別主義者で糾弾すべき存在と考える人が普通とされる場所がある。
ある作家が書いた「TERF」を批判する文章を、別の作家が読み読み同意を示すことで、作家同士の繋がりができる。そういう意見を送り合い、認め合うことで、自分たちの正当性を確認できる。Twitterなどをやっていれば、RTやいいねを貰うことで、「TERF」批判の正当性をさらに高めることができる。
さらに、読者も「TERF」批判派の作家の文章が載っている雑誌を買い、読む。TwitterなどのSNSで賛同の意を示す。
私は想像するしかないが、「トランス差別をしていない」と仲間を確認しあうことで得られる満足感はあるだろう。
さらに「TERF」の意見は聞く必要がないとされているので、反論を受けても通常の反論を聞くような負担は少ない。
ある意味とても良い場ができている。

こうなると、「TERF」側は圧倒的に不利のように見える。
逆転する道はあるのだろうか?

(2)現状を変えるには数で逆転すると良いかもしれない

勝ち目が全くない訳ではない。
ネット上で炎上していた人物がいつのまにか逆転して持ち上げられている場面は度々見かける。大体、批判の対象が別の人物に移っていて、その比較対象として散々批判を浴びていた元の人物が持ち上げられている。
世の人は大体誰かを持ち上げる代わりに誰かを批判したいのだ。だから、より批判されるべき対象を示すことで、「TERF」にも逆転の可能性はあるかもしれない。「文藝」などの存在できなかった場所に普通に存在するようになるかもしれない。
しかし、あまり期待はできない。そもそも、普通でなければいけないのかという疑問もある。

②「TERF」が生き残ってほしい理由

(1)普通で普通じゃない女の言葉が欲しい

再び名前を出させてもらうが、笙野頼子さんについては、普通でない作家として文芸誌で活躍することができれば良いと思う。
人によっては差別だと思う発言もあるかもしれないが、それでも表現としては出すべきである。事実を伝えることが大事なニュースや学術論文ではなく、文学なのだから。
私は笙野頼子のことを普通ではないとは思わないが、広く受け入れられる作風かといわれると迷う。それでも「TERF」と呼ばれる女、多数派という意味では普通の、でも正しいという意味での普通ではないとされる女が書く小説があっても良いじゃないかと思う。それが何年か先には正しいという意味でも普通になっているかもしれない。

(2)本当の多様性が欲しい

女性作家が昔より増えているのか分からないが、女性作家の存在感は当たり前にある。しかし、また一見多様な女性作家が数多くいるからといって本当に多様であるかどうかは別である。
笙野頼子のような作家の言葉を載せないようにし、「TERF」が間違っていることを確認し合うような作家しかいないのであればそれは多様ではない。
私は「TERF」の言葉も認められる多様性のある社会が必要だと思う。


まとめ

何が普通で何が普通でないのかは時代によって変わる。
「TERF」と呼ばれる女の思想は昔は普通と言われていただろうし、今も数の上では普通と言えるだろうが、正しくないという意味では普通じゃないと言われるようになった。それによって、笙野頼子さんのような作家の活動が制限されるようなことも起きている。
今後の流れ次第では「TERF」と呼ばれる女は数の上でも少数派…普通じゃない女になるかもしれない。
それでも、

「TERF」を批判する人たちは、使用できる言葉を制限していく。
身体的・生物学的女性を指す意味での「女性」という言葉、さらにその意味を示すための「身体女性」という言葉も最近は差別と言われるようになった。女性にはgender identityが女性であるという意味以外を持たせてはいけないのだろう。
トランス差別をする人はフェミニストじゃないという理由で、「TERF」は「フェミニスト」と名乗ることもできなくなる。
生理や出産の話をしたいときに「生理のある人」「子宮のある人」という言葉を使わないといけないと言われ、そういう話をすることを難しくする。「女性」や「身体女性」という言葉を使わないと自分の体の話ができないと思う人だっているはずなのに…

また「TERF」とされた女性たちの言葉は存在できる場所を制限される。笙野頼子さんや千田有紀さんなど。
クラウドファンディングで本を作るプロジェクトも停止させられた。
readyfor.jp

さらに、言葉を出せたとしても、差別者だから聞かなくても良いとされる。批判することで批判者の結束を固める目的にしか使えない言葉にされる。

「TERF」は差別者なのだからこれらの対応は当たり前と思う人もいるから、今の状況があるのだろう。
でも私はそういう状況が良いとは思えない。

いくら「シス女性」という言葉と概念、必要な時に「生理のある人」「子宮のある人」という言葉を使っていけば「生物学的女性」「身体女性」といった言葉はいらないという人もいるだろうが、私は身体的や生物学的な意味の女性という言葉は必要だと思う。そういう女性を何もつけずに「女性」と呼ぶこともできると思う。
すべての女性に女性のgender identityがあるわけではなく、身体的・生物学的な女性の概念があることで女性と思える女性もいる。

私はそう信じているから、差別者と言われても今後は数の上でも少数派になったとしても「TERF」と呼ばれても構わないし、「TERF」がいても良いとされる社会であって欲しいと思う。

 

「生理のある人」と呼ばれたくなかったので、7月21日のソフィ公式さんのツイートについて、ユニ・チャーム株式会社に意見を送った

 

先日、このようなツイートのやり取りが話題になっていたのを見た。

 

 

初任給の件については私は分からないのでコメントしない。


ただ、ソフィ公式アカウントが「生理のある人」という言葉を使ったことが気になったので、意見をユニ・チャームのお問い合わせ窓口に送ることにした。

今まで企業に意見を送ったことは、推しのアイドルが出演した番組に対して「これからも出して欲しい」といった内容を送ったことくらいしかない。
今回「生理のある人」とソフィ公式アカウントが呼んだことについて気になったというのは相当で、私にとって軽く流せる話ではなかった。

 

以下の文章を省略して短くした文章をユニ・チャームのお問い合わせ窓口に送った。

7月21日にソフィ 公式さん(@sofy_jp)のツイッターアカウントにて、
「ソフィ商品をご愛顧いただき誠に有難うございます☺️ソフィでは『7日間は、変えられる。』をスローガンに、生理のある人の生活を少しでも快適にできるような商品開発に努めています。娘さんの望む未来に貢献できる会社であるよう、引き続き努力して参ります。
今後ともよろしくお願いします」
という発言があったことについて、気になったので、突然ですが意見を送らせていただきます。
ソフィさんが「生理のある人」という言葉を使っている意図は理解しているつもりです。「生理のある人」と女性とはイコールではないという考えに基づくものだと思っています。
しかし、ツイッターでも反対意見が多数あったように、私のように「生理のある人」と呼ばれたくない女性もいます。

ご存じの通り、女性は遥か以前から子供を産む性として利用され、差別や搾取に合うことが多い性でした。一人の人間としての人格を尊重されず、「子宮」や「膣」といった男性にはない部品、「生理」や「出産」といった男性にはない機能をもった道具のような扱いを受けることが多々ありました。
私はそのような歴史や今も残る風潮を忘れることはできません。「生理のある人」という言葉は、生理という機能で人間を名付け、主体として生きる女性よりも客体として値踏みされる女性のイメージを想起させます。
もちろん、そう思わない女性もいるでしょうが、私のような女性が嫌だと思う意見も、ただの我が儘というだけで受け取って欲しくないと思います。

また、ツイッターでは私のように「生理のある人」という呼び名に反対する多くの女性がいましたが、そのツイートが引用されたり、まとめサイトに上げられたりして、嘲笑、冷笑交じりの批判に晒されています。「これだからフェミは」とフェミニストと名乗っていない人も含めて雑にカテゴライズして馬鹿にして良い対象となっています。
自分が呼ばれたくない呼び名で呼ばれたくないと主張するだけで、嘲笑や説教、侮蔑の対象となってしまうこと…それは女性であることと関係があるでしょう。女性は常に譲ることを求められる性であり、夫婦別姓に対する反対意見でも見られるように、押し付けられた呼び名を拒否することが我が儘と見なされる性でもあります。
女性か他のカテゴリの人間のどちらかが嫌な思いをしなければならないとき(今回の件では「女性」と呼ばれて嫌な人と「生理のある人」と呼ばれて嫌な人が存在します)譲ることを求められるのは女性であることが多いです。それも相手は「譲られている」という意識すら持つ必要がなく「女性は譲って当然」と見なされることが多いのです。
ソフィさんのツイートにそのような意図はなかったと思いますが、結果として「生理のある人」という呼び名を受け入れるか受け入れないかで人間を分断し、反対する人(主に女性)を我が儘で間違った人間と批判させることを促しました。
そのように分断を煽る結果となったことで、女性の中には引き裂かれるような思いを感じた私のような人もいます。そのことをソフィさんは自覚してほしいと思います。

「生理のある人」という呼び方に賛同している人も多くいることは確かですし、私が何か良い代替案を持っているわけでもありません。
できれば生理を経験する体を持つ人を(性自認とは別として)「女性」と呼ぶということにして、そういう意味で「女性」と呼んで欲しいと思います。(生理を経験する体を持つ人はジェンダーが何であってもセックスは女性だろうという考えを私は持っています)
それが困難なのであれば、必ず(省略することなしに)「女性や生理のある人」「生理のある人や女性」と併記することくらいしか思いつきません。
それでも「生理のある人」という呼び方に引っ掛かりを覚える私のような人がいることを知ってほしいと思いますし、考えていただけたらと思います。
長くなりましたが、読んでくださりありがとうございました。
—giganticspring

私はソフィの製品である「はだおもい」や「シンクロフィット」を愛用しているし、これからも使うと思う。
だからこそ、自分の身体に訪れる症状に対処するために製品を使うことにおいてですら、不本意な呼び名で呼ばれて不当に傷つけられることに黙っていられないと思った。

送った当日にユニ・チャームから返信があり、「お知らせいただいた件につきましては、関連部門に伝えさせて頂きます」とのことだった。

 

最近、「生理のある人」や「子宮のある人」をさも配慮した呼び名であるかのように使用する人は多い。でも、私はそう呼ばれるのは嫌だし、それで損なわれるものは確実にあると思う。
今後も反対していきたい。

安倍元首相は国葬にして欲しくないし、笙野頼子さんは発禁小説家であって欲しくない

安倍元首相が殺された。
痛ましい事件であり、あってはならないことだ。

しかし、彼を国葬にすることには私は反対する。

 

野党で反対しているのは、日本共産党、れいわ新選組社民党である。

www.jcp.or.jp

reiwa-shinsengumi.com

sdp.or.jp

 

私も安部元首相の国葬に反対する。
法的根拠についてはわからないが、税金で元首相の葬儀が行われることはおかしいと思う。すべての国民が安倍元首相に好意的な評価をしていたわけではない。抱く思いもそれぞれ違う。
国葬にしてしまうことで、すべての国民が安倍元首相の生前の功績を讃え、死を悲しんでいるという印象を国内外に与えてしまう可能性がある。
元首相とはいえ、他の国民と同じただの人であるはずなのに、税金を使って特別扱いをすることは許されないことだと思う。それによって、安部元首相の死を悲しむことが「日本国民としての当たり前」になってしまい、そういう態度をとっていない者が多数派の国民に不快感を与え、まるで非国民のように言われてしまうことも心配だ。

 

いや、幹事長がこんなことを言ってしまうのだから、もう私のような者は非国民なのかもしれない。
私は茂木氏の言う「国民」の中に入っていないのだから…

mainichi.jp

 

国葬に賛成する人しか国民にとしてみなされない日本になってしまうことに、私は反対する。

日本共産党の志位氏の言ったとおり「弔意というのは、誰に対するものであっても、弔意を示すかどうかも含めて、すべて内心の自由にかかわる問題であり、国家が弔意を求めたり、弔意を事実上強制したりすることは、あってはならないこと」だ。

今からでも、国葬をやめて欲しい。

 

話を変える。

 

笙野頼子(敬称略)の最新刊『笙野頼子 発禁小説集』を読んだ。

 

 

 

この作品が普通に出なかったこと(「群像」に掲載された作品が複数あったのに講談社からは出なかった)ことに暗い気持ちになるが、それでも本を出せたのは笙野頼子という作家自身の力と、彼女とその作品が持つ力に動かされた人たちの力だろう。そのことは心強く思う。

なぜ普通に講談社から出なかったかというと、「質屋七回ワクチン二回」やほかの掌編にある主張が含んだ作品を刊行することはしない、と判断されたようだ。
(出版部長、群像編集長、単行本チーフの合議の上で)
その主張は女性かそうでないかを肉体で決めるという話である。

女性用スペースのことや、女性スポーツのこと、女性自身や女性自身の身体が関係する物事についてどう呼ぶか、といったことを女性が決めることは差別と言われることがある。
最近のそういう流れによって、笙野頼子の作品は出版されるべきではない、と判断されたのである。

確かに、笙野頼子の表現については私もどうなのだろうと思うところもあった。
例えば、「陰茎つき自認女性」など頻繁に「陰茎」という言葉が出てくる。私は女性の身体を軽視する風潮に反対だが、陰茎のあるなしを強調することはあまりよくないと思う。

私とは違い、笙野頼子は女性かそうでないかの判別法として陰茎の有無をより重視しているようだ。「GID特例法」を尊重し、手術して体や戸籍を変えた者は女性と認めているようだ。だから、陰茎の有無が女性かそうでないかを判断するときに重要な要素となるのだろう。
私は陰茎の有るなしで女性かそうでないかがスイッチのオンオフみたいになるとは思っていないので、「陰茎つき」と他人を呼ぶことはよくないことだと思ってしまう。
笙野頼子もそんな風には思っていないのかもしれないが、私はそう思っているように思えた)

そういった点で気になることはあったし、人によっては他に気になる点もあるだろう。
しかし、だからといって出版しないという選択は最悪だと思う。

最近の文芸誌は趣向を凝らした企画で読者を惹きつけているし、多様性をテーマにした作品も多くなったように思う。
しかし、実際のところは笙野頼子のように表現することを止められる作家がいる。反論の場も与えられずに、批判だけを受けている。
多様性と言いながら多様ではない現在の状況がある。私はそのこと(多様性に見せかけた同調圧力があること、世間の流れに後押しされた少数の人間による判断によって、一人の作家の表現の自由が侵害されていること)を忘れたくないし、忘れてはいけないと思う。

 

また、参議院選挙の直前、笙野頼子山谷えり子氏に投票するとホームページに書いていた件についても書く。

femalelibjp.org

私はこのブログに山谷えり子氏について書いた。

hananomemo.hatenablog.com

正直、笙野頼子山谷えり子氏に投票する可能性はあるな、と思っていたから、そう書いているのを見ても驚かなかった。
それはもちろん、彼女のLGBT理解増進法案についての発言があったからだ。

www.youtube.com

 

女性用トイレやスポーツの問題があることを発言した山谷氏。
そういった問題はないし、そういった問題があるという話をすることは差別だということを言う人がLGBT理解増進法の成立を進めようとする者の中に多かった印象があるし、今もそうだ。
だから、そういう問題は存在していることを認識してくれているように見える山谷えり子氏の発言には私にも惹かれるものがあった。
私の場合は山谷えり子氏の考え方のほかの部分で決定的に合わないと思ったから、絶対に支持はできないと思ったが…
笙野頼子はまずはLGBT理解増進法の成立などで「女を消す」動きが加速することを懸念しての山谷氏への投票となったのだろう。

笙野頼子 発禁小説集』には笙野頼子日本共産党支持をやめるようになった理由も書かれている。

一応、日本共産党の記事では簡単に「差別者」と糾弾するやりかたは良くないということも書かれている。

www.jcp.or.jp

それでも、日本共産党支持者の笙野頼子への糾弾を止めることはできていなかった。

右とか左以前の問題として、人は自分の話を聞いて誠実に対応してくれそうな人を支持したいと思うのが当たり前だろう。
そういう人を選んでも良いと思えることで、自分は意見を尊重されるに値する人間だと思うことができる。
だから、私は笙野頼子の投票の選択を支持する。

 

 

【追記あり】参議院選挙の投票日が近いので、政治について考えてみた―本当に「誰も取り残さない社会」とは何だろう?

参議院選挙の投票日があと一週間後に迫っている。
自分の中で整理できていない部分も多いが、考えていることを書いてみる。こういう機会に、自分が望む政治について考えたくなったからだ。
 
先日、私が子供と外を歩いていると、山谷えり子の応援演説に遭遇した。
支持している人たちが一定数いるようで、演説のところにも人だかりができていた(大半は素通りしていたが)また、ポスターを貼っている家や施設も近所に複数ある。
 
七生養護学校事件において障害児に性教育を行わせないように圧力を掛けて、未だに同じ思想の元で議員活動をしている山谷えり子だけは絶対に投票しない。
全ての子供がそうだとは思うが、特に障害のある子供にとって、正しい性の知識を自然に身に着けるのは難しいことが多い。適切な性教育を受けずに大人になれば、性被害の被害者になったり加害者になったりするかもしれないし、そこまでではなくても性の知識がないことで遭わなくても良い不幸な出来事にあってしまうかもしれない。
家庭や周囲の環境だけでは性教育が十分に行われるかはわからないし、学校で適切な性教育を受けることが社会で生きていくには必要となっていくだろう。
「過激な性教育」という表現もあるが、子供の理解力には個人差がある。具体的なことを教えなければ、何を教えられているのか分からない子供もいる。分からなければ社会で使える知識にすることができない。授業では性のことを避けていても、外では避けられないこともあるのだし、そこで自分で対応できるようになるためにも性教育は具体的にやるべきだ。
 
そういう理由で、山谷えり子の活動については許せないのだが…
 
私が以前ある政治家の言葉に感動して、希望を感じたように、山谷えり子の言葉に感動して、希望を感じた人は、それなりの数いるんだろうとも思う。山谷えり子が考えるやり方でこそ(「過激な性教育」を避けたりするやり方でこそ)子供が立派な大人に育つのだと考える人もそれなりにいるのだろう。
だから、山谷えり子を私や誰かが批判することで、自分のことが批判されたと思う人もいるのだろう。
 
私は日本維新の会についても全く支持できないのだが、私が住む場所では圧倒的な支持を得ている。支持している人たちが私よりも知識がないとか人格的に未熟だとかそういうわけでは全くなく、それどころか私よりもずっと多方面に知識があったり、人格的にも私よりも素晴らしい人が実際に支持している。日本維新の会を私や誰かが批判することで、そういった人たちが不快に感じることもあるだろう。
 
そういうことを考えると、少数派が無闇に他の党や議員の批判をすることは難しいと思う。当選して議員をやっているということは皆それなりの支持者を集めることができる、それだけの物…例えば希望を多くの人に与えたひとなのだから…
 
では批判せずに多数派に投票すれば良いじゃないかという話になるかもしれない。多くの人…私よりも知識的にも人格的にも素晴らしい人がその中には多数含まれているだろう…が支持している所に投票すれば間違いないのでは?
 
しかし、私にも理想があり、それは一言でいうと「誰も取り残さない社会」であって欲しいということだ。
「誰も取り残さない社会」という言葉やそれに近い言葉は最近はよく聞かれる。誰かは忘れたが政治家がそういうことを言っていたようにも記憶している。そう言うのは簡単だが、実際に本当に「誰も取り残さない社会」とはどういう物なんだろう?とも思う。
 
誰かが「これは絶対に必要だ」と思うことが誰かにとっては「これは絶対にあってはならない」ということになる。どちらかの意見が間違っていると潰してしまうこともできなくはないが、それで「誰も取り残さない」なんて言えないだろう。
 
また、誰もが接するのが嫌だと思ってしまうような人も取り残さないようにしなければいけない。
先日、よく行くスーパーで店員に怒鳴っている客がいて、それを見た私は落ち込んだが、そういう怒鳴るような人も幸せに生きられるような社会を目指さないといけない。
もちろん、怒鳴ることを許容する社会というわけではない。罰が必要なこともあるだろう。
 
行為についての批判はするべきだけど、存在を否定してはいけない、ということを私は言いたいのかもしれない。
どんなに他人に不利益を与える存在だとしても、行為を批判しなくてはいけないのだし、存在は誰にも批判できない。幸せに生きる権利があると言える。
冒頭の山谷えり子の件についても、性教育をすることを妨害したこと、今も妨害しようとしていることは許せないが、山谷えり子という政治家のすべてを否定したいわけではない。

世の中酷い人間はいくらでもいる。信じられないことをする人間もいる。
それでも、どんなクソみたいな人間でも、そのクソさは批判されたとしても、幸せに生きていける日本にしようという社会が良いと思う。
 
選挙というのは誰を選ぶかという話だから、候補者が自分の立場の正当性を主張し、対立候補の批判をするのはある意味当然だ。しかし、批判だけでは、誰か敵を見つけてそれを攻撃するだけでは、社会をよくするには不十分だ。
もっと大きな希望を持って、日本なら幸せに生きられるだろうと思える、そのために頑張ろうと思える社会を目指そうと明るく言える人たちを選びたい。その人々はすべての人々であって、誰かが取り残されるようなことはあってはならないと自然に言える人たちを選びたい。
実際「誰も取り残さない社会」とはどういうものなのか考えることも難しいし、実現はもっと難しいだろう。それでも、それを目標としない政治に私は魅力を感じない。
 
誰かは意見を言うことができるし受け入れられる、誰かは意見を言いにくいし言っても誰も取り合わない…なんてことはあってはならない。すべて受け入れることは不可能でも、すべての人の意見を尊重はして欲しい。
 
 
理想通りとはいかないまでも、それに近い候補者を選び投票したい。
そうすると、結局は当選確実な候補者ではなく、あまり支持されていない候補者を選んでしまうのだが…(全く可能性ゼロではなく当選争いはできる候補者を選ぶつもりだが)
自分が投票した候補者が選ばれることが少なく、選挙当日は憂鬱になる。でも、投票したことに意義があるのだと言える。
日本にも色々な人がいる、多数派ではない少数派の人がいる。その中の一人である私という存在を考えることができるからだ。
いくら少数派とはいっても、投票数ゼロの候補者なんていない。結局は多数の支持を集められる人が当選するのだが、それだけではなく実際は色々な考えを持つ人がいるのだ、いて良いのだ、ということが実感できるのが選挙の良いところだと思う。
 
まとまりのない文章だが、選挙間近の今、私が考えたことを書いてみた。
 
【追記】
山際大志郎経済再生担当相が街頭演説で「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない。本当に生活を良くしたいと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」と発言したらしい。

www.jiji.com

注意を受けたようだが、それだけでは全然処分の足らない、あってはならない発言だ。
野党の議員の背景には、支持して投票した数多くの有権者がいるのであり、その話を「何一つ聞かない」というのは有権者の話を何一つ聞かないということに繋がる。野党の議員も有権者の代表だという考えがそこにはない。
自民党、与党と野党の議員との間で、話を聞くか聞かないかに差をつけることはあってはならない。有権者の代表である議員という立場の人間ですら野党というだけで話を聞かれないというのは「誰も取り残さない」社会から最も遠いものだろう。
有権者…国民を馬鹿にしている、あってはならない発言だと思う。
 

笙野頼子さんの唯一無二の強さー「海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集」

笙野頼子さんの本を読んだ。

先月、最新刊である『発禁小説集』が発行されたが、そちらではなく2020年に発行された文庫『海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集』の方である。

難解ではあるのだが、ただ難解なだけでなく、その先に必ず得る物がある。

特に80年代の作品は暗く閉塞的である。孤独の中で抱く妄想について書かれていて、恐ろしく鋭く組み立てられた、美しい文章で綴られている。生きるために妄想を抱き、妄想と戦い、妄想とともに生きているという凄まじさがある。
90年代の作品になると少し開放的になるが、それでも鋭く身の回りの出来事を切り取る鮮やかな表現力は変わらない。女性が一人暮らしすることの困難も描かれる。
デビュー後10年本が出ず苦労していた時代の作品達であるが、独創的な輝きは十分にあり、読み応えがある。


それだけでも読後十分に満足したと思うが……

さらに文庫化の書下ろし「記憶カメラ」という作品が収録されている。私小説であり、収録された作品群を書いた頃の振り返りと現在の状況についても知ることができる作品である。

そこで、初期作品を書いていたころに体調が悪くて動けなかったり、他の人のように働けなかったりしたのは難病のためだったことが分かる。

笙野頼子(ここから敬称略)は女性であるが故の困難に遭いながら、自分を男を感じたり自分が女の肉体を持つことに向き合うことになったりしながら生きてきた。
小説家としての言葉を武器に、誰にも理解されずに難病と戦い、外部とも戦ってきた笙野頼子の唯一無二の強さがそこにある。優しさも……

私が惹かれたのは、難病について書かれた文章の一部である。

さて、それから何十年? 病名がついたのは五十六歳、十万人に数人、混合性結合組織病、膠原病の一種。就業率十五パーセント、圧倒的に女性の病気、よくフェミや左翼の女性でさえも専業主婦を叩いているが、その中にはこの病気の人もいて、中には合併症の肺動脈性高血圧になってしまっているのに糖尿病の姑の看病をしていたりする。その他には私よりずっとハードな検査をした後でそのまま家族四人のご飯を作っている女性もいる。

私は笙野頼子と同じ病気の人ではないし、他の病気も患っていない健康体の女であるが、他の事情で専業主婦である。
確かに、専業主婦を志望する若い女性に説教したり、専業主婦をしていた親世代を批判するフェミニストたちがいる。今でも様々な理由で専業主婦をしている女性は多いが、ポジティブな取り上げられ方をすることは少ない。
そんな状況で、フェミニストとして認知されている(されていた)笙野頼子が専業主婦にも理由があるのだと認識してくれているのは、私とは全く違う境遇の話であるとはいえ救われた気持ちになる。

 

後に、こういう箇所もある。

(前略)そんな私が「ソフトじゃない売れないフェミニズムはいらない」とか言われる覚えはないしそもそも流派のあるようなフェミではない。今はただフェミ自称の乗っ取り男や侵入男、フェミ説教強盗を女の居場所から叩きだせと言いたいだけ。私? 私は文学だ、思想ごときになる前の永遠の原初だよ。なんらかの哲学や思想、政党等と親和的にしていてもいつでも捨ててやる。

思想如き…

その思想と合わせることができない自分のことをずっと考えてしまっていた私にとっては衝撃的な文だったし、確かに、いくら自分が救われた思想だからといって、その思想に縛られるのはおかしいと思えた。
一人一派といったり、幾つかの流派があったり、それでも〇〇なのがフェミニズムだ。そうでないとのはフェミニズムでないという言葉が目に入ると胸がチクリとなる。フェミニズムがさらに世間で認められるようものになるためには一人一派とか言ってられないだろう。一つにならなければいけないのだろう。
私はフェミニズムに感銘を受けて支えられてきたのに、結局そのフェミニズムが一般化する障壁となる存在になって居ると思う。というか最初から私はフェミニズムの思想に見合う人間ではなかったくせにそれに惹かれていただけだったのだろう。


しかし、フェミニズムという言葉は不思議である。
一見フェミニズムは女の権利運動を表す言葉に見える。
他の権利運動……たとえば、障害者権利運動であれば、いくら派閥に分かれることがあっても、まず障害者がその言葉が示す範囲から漏れることはありえないだろう。
しかし、フェミニズムの場合、流派に別れるだけでなく、そこから「本物のフェミニズム」の議論があり、その結果として女がそこから漏れることがある。どの女がフェミニズムから漏れるのかの判断を女ではない人……たとえば男が下すこともある。


とにかく、私はフェミニズムという思想のために生きているのではないし、その他の思想のために生きているのではない。ただ私は私のために生きているだけだ。
そのために、思想でも何でも、あるものは利用して、合わなくなれば捨てていくという強さを持って良いというメッセージを笙野頼子の言葉はより与えてくれる。
私は文学だ、なんて口が裂けても言えないけど、私がより私として生きるために、様々なものを味方につけたり利用しながら強く生きていこうとすることが文学的に見える日が来るかもしれない。

笙野頼子の作品を読むと力付けられることが多い。笙野頼子が同じ時代を生きていることを嬉しく思う。
私は笙野頼子とは違う人間だ。難病ではないし、他の苦労もそんなにしていないと思う。
それでも、闘って良いのだ、と思える。私のやり方で、好き勝手に、誰にも文句を言わせない……私は笙野頼子から貰った強さを武器に闘い生きていこう、と思える。そう思わせてくれてくれる本は希少だ。

凄まじい文章能力で自身を、この社会を見つめ切り取り闘っていく。そんな笙野頼子の姿の昔と今を読むことができるこの本を読めて良かった。

最新刊も読みたい。

 

4/13に公開された、Youtube動画のれいわ新選組の大石あきこ氏の発言について思ったこと(トランスジェンダーの人が女性用トイレを使用することについて「気にするな」と言ったことなど)

れいわ新選組衆議院議員、大石あきこ氏は同じれいわ新選組のよだかれん氏との対談動画を4月13日に公開した。

それを見て気になったことがあったので書く。

 


www.youtube.com

①女性トイレのトランスジェンダー利用のこと

 

後半、大石氏は「トランスジェンダーの人が女性トイレに入ってこられたら怖い」という発言を(SNSで)した人物に対して、「お前の方が怖いって」、「気にするな」と言っている。

現在、トランスジェンダーについてある程度ネットで調べたことがあるひとなら「トランス女性は女性です」というフレーズを目にしたことがあると思う。
トランス差別をしていないとみなされるためには「トランス女性=女性」という等式を前提として話をしなければいけない。

だから、女性トイレや他の性別に分かれたスペースについてトランス差別と取られないような発言をするとしたら、「お前が怖い」「気にするな」と怖がったり気になったりする女性個人の問題とすることはある意味「正解」と言える。

しかし、本当に「正解」なんだろうか?

今は、女性トイレなどの女性専用スペースは現実的には「女性に見える」人が使うものである。今のところトランスジェンダーの存在についてはあまり考えられておらず「身体的女性(いわゆるシス女性)に見える人」が使う、と思われている。
身体的女性の人に見えない人が使用しているのを見たら、警戒し、場合によっては助けを求めるかもしれない。

しかし、このままトランスジェンダーのことが世に知れ渡り、「トランス女性がトイレなどの女性専用スペースを使うことに拒否反応を示すこと=差別」の考えが広まれば、スペースを使う基準は「トランス女性に見える人」が使うことになる。性自認は他人から見えないので、見えるものでしか判断できない。

ツイッターを見ていると「トランス女性とシス女性の区別はつかない」「トランス女性はもう既に女性専用スペースを利用している」と言って、トランス女性の女性専用スペースの利用は問題ないとする人が見られる。しかし、それは今のところ「シス女性(身体的女性)」に見える人が使っていることがほとんどだろう。

いくら「シスもトランスも同じ」と言っても、一般的に人が「身体的に女性の人」と「トランスジェンダー含む、性自認が女性の人」とではイメージする女性像が違うと思う。「トランス女性」のイメージの方が「身体的女性」のイメージよりもより範囲が広くなるだろう。

女性トイレなどに、身体的な女性には見えないが、トランス女性にギリギリ見えなくもない…でも、男性の可能性が高い、みたいな人がいたときに、助けを求めて良いのか…と悩むようになるかもしれない。
間違えた対応を取ってしまうとトランス差別とされてしまうリスクを負わないといけない。

女性専用スペースを利用する方は入りやすくなるだろうが、そこには「男性自認で身体的にも男性だけど、女性に見せることができる人」も含まれる。
「女性に見せることができる」のも身体的女性よりもトランス女性に見せる方が容易だと思って実行する男性もいるかもしれない。

そういった可能性のことを考えるだけでも「トランス差別」とされる現状なので、なかなか難しい。

多目的トイレなどの性別に関係なく使えるスペースが増えることが一番良いのかもしれないが、すべて共用のスペースにしてしまってはそれはそれで問題がある。
昔は共用が多かったのが、男性、女性と分かれたのは女性が安心して利用できるためという理由がある。

いろいろ書いたが、私はトランス女性が女性専用スペースを利用するなとは言えない。
よだかれん氏などのトランス女性個人に対して女性専用スペースの利用をやめろ、などと言うのは人権侵害だと思う。
トランスジェンダーの人が女性トイレに入ってこられたら怖い」というのも、基本的にはSNSで言わない方が良いと思う。
しかし、「トランス女性は女性だから全員女性トイレを利用できる」という考えに賛同できない自分もいる。

「怖いと思う」「気にする」というのは自分の身を守るために必要な行為だと思う。
それを自由に表現しているとトランスジェンダーの人を傷つけることになるのかもしれないが、全くそうするなというのも難しい。
「怖いと思う」「気にする」ことをしなくて良い、被害に遭う心配のない社会が一番理想だが…

大石あきこ氏については、問題を個人に押し付けるのはやめて欲しい。
女性トイレなどの女性専用スペースについてはそうしないと(女性個人に「気にするな」「差別だ」と言わないと)語ることがもはや難しい(それしか「正解」にならない)話題になっているので、話題にして欲しくない。
そんな風になっていること自体を話題にして欲しいと思うが、それは大石氏ができることではないだろうし、して欲しくない。

 

➁全体的に言葉が乱暴なこと

 

れいわ新選組Youtube動画は山本太郎代表のものしか見ていなかったが、初めて大石氏の動画を見て、言葉の乱暴さに驚いた。

なぜこんな言い方をするんだろう?と思うくらい強い言葉を使っているところがあった。

一つ例を挙げると、よだかれん氏について「多様性枠の人は積極財政ではないと思い込んでいる人がいる」というところで大石氏が「かわいそうな人たちなんですけど」と言ったところだ。
「思い込んでいる」というだけで「かわいそうな人」と言うのはキツ過ぎるのではないか? 人はひとりひとり考え方も違えば理解力も違うのに…

間違った理解をしている人がいたら、何回でも説明して理解してもらえば良いのでは?と思ってしまう。
もちろん、理解できる人にだけ理解してもらえれば良いと考えているのだったら別に良いが…それでは多くの人に支持されないだろう。

大石氏は橋下徹氏とのやり取りや、ツイッターなどのSNSでのやり取りで、自分と同じ意見の人=味方、違う人=敵と考えているのではないか?と思ってしまった。
SNSを使っているとどうしてもそういう考え方になりがちだと過去の私の経験から思う)
対立せざるも得ない場合もあるだろうが、基本的に政治はみんなが幸せになるためのものなのだから、無用な対立はすべきではないと私は思う。

①で取り上げた「女性トイレをトランスジェンダーの人が使うことについて反対している人」についても、大石氏は「自分だけが犠牲者なんだと思っている」「余裕がない」から「積極財政で所得を上げよう」と言っている。相手が何を言っているのかを聞かずに、自分の党の政策に引き込んでいる。
自分と違う意見を持つ人を勝手に「こうだろう」とレッテルを張り、勝手に見当はずれの、(自分の党の理念に合う)自分に都合の良い解決方法を押し付けるのは信頼できない行為だ。

SNSでのやり取りではそういう強気なやり方の方が良いのかもしれないが(例えばツイッターでは、断定的な発言で自分は正義で対立意見は敵だと主張し、RTやいいね数を稼いだ方が、聞くべき意見と見なされる傾向がある)、動画で見るとかなり乱暴な印象を受ける。

大石氏は変えるつもりはないかもしれないが、考えて欲しいと思った。