女性の権利、女性の声を守るため、性別変更の手術要件撤廃に反対します

現在、日本で戸籍の性別を変更するには性別適合手術が必要である。

それが憲法に違反しているかどうかを争う家事審判において、9月27日に最高裁大法廷が当事者の意見を聞く弁論が開かれた。

www3.nhk.or.jp

 

手術要件はトランスジェンダーに対する人権侵害であると考える当事者や支援者は多くいる。

 

対して、櫻井よしこ自民党の議員などのメンバーで構成された、「全ての女性の安心・安全と女子スポーツの公平性等を守る議員連盟」(通称:女性を守る議連)は手術要件が違憲となることに懸念を表明している。

 

www.asahi.com

先日は、一般市民である女性たちが手術要件撤廃に反対するデモを開催した。

www.sankei.com

私も今の日本で性別変更の手術要件が撤廃されることには反対の立場だ。

「女性の権利の軽視、権利について語ることの制限」が社会において広がってしまうことの懸念があるから、私は反対する。

 

 

 

メディアによる「女性の権利について語ることの制限」について

トランスジェンダーをどのように扱うのかは媒体によって違う。
一部の媒体では、「トランスジェンダーの女性を女性として含めるべき。それに反する意見を持つ者は発言すべきではない」という姿勢を徹底しているように見える。
例えば、朝日新聞ではトランスジェンダーの権利を主張する人たちを定期的に取りあげているが、(最近では9月23日の「ひと」欄の高井ゆと里)そこに疑問を感じている人を取りあげることはしない。
ただ、国際面では比較的中立に取りあげている。2023年7月11日(トランスジェンダーのトイレ利用を巡る訴訟)や4月8日(トランスジェンダー生徒のスポーツ参加)の記事において、アメリカの賛成派と反対派それぞれの立場を取りあげている。

www.asahi.com

www.asahi.com

国際面では双方の意見を取りあげているのに、国内では片方の意見しか取りあげない。聞かれない声があることを放置するだけでなく、同じ立場の人の声ばかりを取り上げて「再教育」しようとする朝日新聞の姿勢は不誠実と言える。

 

文芸誌でも、『群像』に掲載された笙野頼子の作品が単行本化されないということがあった。
週刊読書人2023年8月18日号の田中秀臣栗原裕一郎の対談でそのことが取りあげられたが、後に水上文による反論が9月8日号に載った。

[3502]2023年8月18日号 データ版jinnet.dokushojin.com

 

[3505]2023年9月8日号 データ版jinnet.dokushojin.com

 

笙野頼子講談社から出せなかった作品を『笙野頼子 発禁小説集』として鳥影社から出している。

水上文はそのことをもって、笙野頼子は「発禁」されていない、つまりキャンセルされていないと言うが、掲載誌の出版社から出せなかったという異常事態が起こったことを軽視しすぎている。
笙野頼子という一人の女性作家の声が消されようとした痛み、その声に勇気づけられてきた者たち…特に女性たちの痛みというものを無視している。

トランスジェンダーの権利を求める人たちの声のみを取りあげて、そうではない声…女性の声を無視すること。
それによって、女性は自分が女性であると言うことをどう捉え、生きていくかということについて抑圧され、わきまえさせられてしまう。

 

女性が女性の身体を持って生まれ、そう見なされ生きてきたことの軽視について

周司あきら・高井ゆと里による本『トランスジェンダー入門』によると、トランスジェンダーは「女性・男性として生きること」が難しかった人々とされる。

その中には「これからは男性・女性として生きよう」と性別移行を行う人がいて、さらに生まれたときの身体的特徴を手術やホルモン投与で変えようとする人もいる。

著者によると、そういう後天的に身体的特徴を変えることで(手術要件を満たさなくても)身体的にも性別が移行できているじゃないか、いわゆる「シスジェンダー」と身体的にも変わらないじゃないか、と言っている。

つまり、著者の主張は、女性であること/男性であることに重要なのは「女性/男性として生きようとしていること・生きているように見えること」であって、生まれたときに医師に女性/男性と判別されたことや、そう見なされる外性器などの身体的特徴を備えていたことは大して重要ではない、ということだ。

しかし、実際にそうなのであろうか?

生まれたときに女性らしい身体的特徴を持つことで、男性とは違った経験を幼少時からすることになる。
周りの目も男性に対するものとは違ったものとなる。

「女性ならこれくらいしろ」
「女性はこれはしなくても良い」
といったことの内容が男性とは違ったりする。
そのことによって、女性は男性に比べて将来の可能性が変わってしまったりするし、自立が阻まれてしまったりもする。

もちろん、女性の身体の特徴である生理や妊娠といったものに振り回される女性も多い。振り回されるというと被害者意識が強いようだが、生理や妊娠というものにどう付き合っていくかと言うことが大部分の女性に取っては重大なテーマにならざるを得ない現状がある。

さらに、最近は医学が男性中心になっていたという批判がある。
女性のデータを取ることをせず、不適切な対応で女性に不利な医療の状況になっているという指摘がある。
例えば、心筋梗塞は男性の方が発見されやすいという報告がある。もちろん、ここでいう男性や女性はジェンダーアイデンティティではなく身体的な性別である。

mainichi.jp

しかし、トランスジェンダー女性の声だけを聞き、それに対する身体女性の声は重要ではないと切り捨てることで、こういった身体的特徴に関する問題や、その特徴を有する者に対する期待や抑圧に関する問題は、女性の問題ではなくなり、重要視されなくなってしまう。

たとえば、大学の女性採用枠にトランス女性が採用される例がある。
女性が身体的に仕事に向いていない特徴があること、またそういうカテゴリーに属する者として出生時から見なされ扱われていたことが、トランス女性を採用することによって軽視されている。

Twitter(X)で元男子校の生徒だったトランス女性が女性枠で採用されたという投稿を見たことがあるが、男子校で男子生徒として見なされ一時的にでも生きられたことは、身体女性にはできない特権である。
しかし、そういったことは考慮されないし、女性がそういう声を上げることも差別と言われかねない状況がある。

手術要件がある今でさえ、トランスジェンダーの(女性の身体を軽視する)意見に差別者扱いされずに反対することは難しい場合がある。
手術要件があることで身体的にも一定程度の移行することが戸籍の性別変更の条件になっているが、身体的に移行する性別に合わせる必要がない(出生時のままの身体で男性/女性になれる)ということになれば、身体的な特徴やそれに付随するものはさらに軽視されてしまうだろう。

 

女性の言葉が制限され、それによって現実が制限される危機について

手術要件撤廃について、女性である私が危機感を感じているのは、この日本という国ではまだまだ女性差別が残っているからだ。
差別があり、女性の言葉が軽視されているがために、今ですら女性が自分のことを話すための言葉は不十分である。
なぜ軽視されているかという理由について、男性とは違う女性の身体を持って生まれてきたこと、その身体を持つ者として生きてきたことは重要な要素だ。
もし男性と女性が全く同じ身体で生まれてきていれば、女性の扱いは今とは違ったものになっていただろう。

しかし、手術要件がなくなることによって、男性と同じ身体を持つ戸籍女性が存在することになり、女性の身体については考慮しなくても良いこととになる可能性がある。

「女性」という言葉が今までは基本的に「身体が女性の人」という意味で通っていたのが、それでは差別となってしまう。


J.K.ローリングが「生理のある人」という言葉を「女性じゃないの?」というような言葉で疑問を投げたときに大きな批判を浴びたように、女性の身体に関する言葉は女性に属する者ではなくなり、症状(生理・PMS・更年期症状)や内臓(子宮・卵巣)、人体のパーツ(乳房・膣)、行動(出産・授乳)といったようにバラバラに捉えて、語らないといけなくなる。

女性が自分の身の回りの差別を考えたり、訴えたりするときに、そういう言葉の制約が障害となってしまう可能性がある。
つまり、女性は常に自分とは身体が違う「女性」がいることを念頭に動かないといけなくなる。自分であることと女性であることとが重ならない部分が多く生じてしまう。
うっかりすると「差別」と言われてしまう中、わきまえて話すことが求められてしまう。

そうして、わきまえることの徹底が行われ、そうでない女性が「キャンセル」されてメディアで取りあげられなくなったり、「教育」されたりするようになった後に、女性は問題に直面する。
それはトイレや更衣室などの女性スペースの問題であり、スポーツや女性採用枠の問題であり、その他の問題である。しかし、トランスジェンダー女性を女性として扱うことは「正しい」ことだから、それを問題とすることは認められなくなっているだろう。

手術要件の撤廃を訴える人の中には、撤廃しても女性スペースの運用については変わらないと言う人がいる。
しかし、確実に社会は変わってしまうだろう。まずは言葉の意味が変えられてしまい、その使い方が制限され、それによって問題を問題として捉えることができなくなる。
その後で、現実のいろいろな問題が生じても、反対することが難しくなってしまうかもしれない。

女性にとって取り返しのつかないことになる可能性がある。まずは変えてみよう、ではなく慎重な姿勢が求められる。

 

「女性の安全を守る議連」などの反対派について

手術要件の反対派として知名度があるのは、「女性の安全を守る議連」だろう。

LGBT理解増進法の成立とともに、それが女性の安全などに影響が及ばないような取り組みをしている議員連盟だ。

賛成派または無関心な議員がほとんどである中、女性にとってはこの議連の働きが頼りになる。

 

ただ、自民党議員の中でも保守的な思想を持つ人が多く(それ自体は問題ではないと私は思う)、「人権」と言った言葉を嫌う人が多いために「女性の権利」を守る目的で反対していないというのが不安ではある。

冒頭に載せた記事:

「手術要件、違憲なら混乱」 最高裁の判断前に、自民議連が声明:朝日新聞デジタル

を見ると、手術要件を撤廃すべきでないという理由として「手術要件が違憲ということになれば、(女性の生殖能力を維持したまま、男性への性別変更が可能になるため)法的男性になった後に生物学的な母であり得るなど、大きな混乱が生じる」ことを挙げている。

もちろん、社会の混乱を招くことは良いことではないだろう。

しかし、わざわざ女性議員たちが集まって「女性の安全を守る」と名乗っているのに、社会を主語にして語ることは間違っていると思う。

 

女性の権利を守ることよりも、社会の秩序の方が大事と考えているのではと不安に思ってしまうし、実際そうなのだろう。議員の人たちは「男らしさ・女らしさ」を大事にするという国の秩序を考えているのであって、女性たち個人個人がそれぞれ安全に生きることは二の次なのだろう。

 

共同代表の片山さつきトランスジェンダーの人が女性トイレを利用することについて「生理的不安感」「嫌な者は嫌」と語ったこともあった。

www.reuters.com

女性が女性スペースを安全に使えることを女性の権利として主張することができない立場の人間の限界だ。
「社会の混乱」「生理的嫌悪感」という曖昧な言葉使いではなく、女性が人間として生きるために必要な権利である、とはっきり言った方が良いだろう。

トランスジェンダーの当事者が支援者が「権利」を基に主張をしているのに対して、女性も女性の「権利」がある、その「権利」がぶつかっているという現状をはっきりさせるという点でも大切なことだ。

 

わきまえた主張しかできない、保守派の議員以外で、女性の立場に立って、女性の権利を主張する立場の人間は議員だとほぼいない。
富士見市の加賀ななえ市議会議員くらいしか私は知らない。
(加賀は性同一性障害特例法自体を廃止すべきと言う考え方のようだが、私は性同一性障害特例法自体は必要としている人がいるので残すべきと考える。それでも、彼女の一貫して女性の立場と権利を守るために活動する姿には勇気づけられている。これからも応援したい)

悔しいが、右派と蔑まれながらも(右派だからといって蔑まれる謂れはない)「女性の安全を守る議連」の活動を応援しながら、そうではない勢力を探して応援したり、自分で小さな声を上げていくしか方法はないのだろう。

 

まとめ-女性差別があるこの国で手術要件撤廃に反対するということについて

戸籍の性別変更の手術要件撤廃が憲法違反かどうかについて、年内には判決が出る。
それについて多くの記事が出るだろう。その話を取りあげる人もいるだろう。

忘れてはいけないのは、この国では女性差別が厳然と存在しているということだ。

女性が自立して生きていくことが難しく、自分の声を社会に届かせる権力もない場合が多い。
女性に対する差別的な目線や、女性の存在を軽く見る社会の目線もあるが、女性の身体的な特徴があること、その特徴を持って出生時から「女性」と見なされて生きてきたことに大きな原因がある。
そのことを軽く見る風潮がトランスジェンダーの権利を主張する周りではある。
「身体的性別なんてない」と言われたりするし、女性として社会で生きようとしていれば身体的な女性と同等である、という意味のこともよく言われる。

私はそこに、身体的女性の声なんて聞かなくても良い、という女性蔑視の視線を感じる。

しかし、女性蔑視の視線は別にトランスジェンダー周りにのみあるだけではない。この国ではあらゆるところに女性蔑視があり、政治の場にもあるし、司法の場にもある。
確実に存在している女性蔑視…それは女性の身体性に(すべてとは言わないがかなりの割合で)要因があるのに、手術要件撤廃によって、男性であることや女性であることに身体的にその性別であることは関係がない、ということになってしまう。
女性蔑視がなぜあるのかという、身体性の部分が見えなくなってしまう。あえて直視して指摘しようとすると、否定され差別ということになってしまうかもしれない。

 

女性がその身体性のために不利な状況に置かれる中、その生きにくさを解消するために女性用スペースや女性採用枠、女性スポーツがあり、女性が自分らしく生きられるように少しでも工夫がされている。
そのことも手術要件撤廃によって、取りあげられることはないまでも、女性の生きやすさは後退するかもしれない。それに対して女性が声を上げることもできなくなるかもしれない。

 

女性スペースの例一つとっても、「手術はしていないが戸籍は女性になったから女性スペースを使える」主張をどこまで受け入れるのかという問題がある。
差別をしないために女性スペースを使える、と決定したらそれこそ女性が安全にスペースを使える、という安心はなくなってしまうだろう。

 

安心なんて必要じゃない、女性の特権だという意見もあるだろうが、もともと女性差別がある国で、女性が専用スペースを用いて少しでも安全を確保し、安心して生活できるというのは、必要な権利だ。

 

女性の権利が守られず、女性の声が聞かれないこの国で、私は手術要件撤廃に反対する。
これ以上女性の権利が軽視されたり、女性の声が黙殺されたりすることのないように。

 

 

 

 

 

【追記あり】LGBT法案について-国民民主党と維新の党が共同提出した独自案を採用して欲しい

 

18日、LGBT理解増進法案が提出された。G7前に間に合った形だ。

しかし、成立するかどうかまだ不明だ。

 

 

法案の内容について(国民民主党・維新の党の法案など)

 

news.yahoo.co.jp

 

もともと自民党立憲民主党など超党派議員連盟が提出した法案だったが、その内容に自民党が疑いを持ち始め「差別」を「不当な差別」などとする動きがあった。
その修正案は了承されたが、自民党内でも廃止にするべきという声があった。

さらに、国民民主党は維新の党とともに修正案とはまた別の案を共同提出した。

new-kokumin.jp

www.nikkei.com

与党案にある「性同一性」という表現を「ジェンダーアイデンティティー」に改める。「国民が安心して生活できるようにする」との条文を新たに設ける。

「国民が安心して生活できるようにする」という条文はシスジェンダー、特にシスジェンダー女性の持つ権利を意識した条文だ。

 

当事者団体は国民民主党がシスジェンダーに「配慮」しようという姿勢に反対している。

 

mainichi.jp

 

私は国民民主党LGBT当事者たちだけでなくシスジェンダー女性の権利も守るという姿勢をみせたことを支持したい。

大事なことは、法案が通ったら終わりなのではなく、その法案がどう社会に作用していくかを見極めていくことだ。
私は、いわゆるシスジェンダー女性(身体的女性)として、自分が持つべき権利が守られていくかを見ていかなくてはならない。

 

シスジェンダー男性については分からないが、少なくとも私のような女性については、LGBT理解増進法が通っても大丈夫とはいえない不安材料がある。

 

①「シスジェンダー女性」などの言葉について

 

そもそも、シスジェンダー女性と呼ばれたくない女性が相当数いることを理解しなくてはならない。
ジェンダーアイデンティティと出生時の性別(「割り当てられた性別」という言葉を好む人もいる。出生時もジェンダーアイデンティティ通りの性別だったということを強調したいのだろう)が同じ人のことをシスジェンダー、異なる人をトランスジェンダーという。

シスジェンダートランスジェンダーに二分してしまうと、女性という言葉の意味は「ジェンダーアイデンティティが女性である」というだけのことになってしまう。そこに身体的な意味はなくなってしまう。

ジェンダーアイデンティティは分からないけど、女性として生まれたから(身体が女性だから)女性だ」という人のことは考慮されていない。
ジェンダーアイデンティティがどうであれ、男性の身体とは違う経験を女性の身体はもたらすことがあり、そのために困難があったり、社会の障壁にぶつかったりする。
しかし、そんな経験や困難があったとしても、女性の身体があり女性として生きることを受け入れている(受け入れてはいなくてもそう見られている)人間はシスジェンダーとされ、トランスジェンダーよりも強者であるとされてしまう。

 

現在、シス女性以外に「出生時の身体を見て女性と判別された」人間を指す言葉で認められているものはない。
(「シス女性」には出生時の身体が女性だった、ジェンダーアイデンティティが女性以外の人は含まれない)


「身体女性」や「生物学的女性」などという言葉を使って自分のことを表現したくても、差別と言われる。

シスジェンダー女性は現在も勝手に決められた自分の呼び方について意見することも差別と言われるリスクを冒さないとできなくなっている。それは「生理のある人」「子宮のある人」「出産者」などの言葉も同じだ。
「生理のある人」という呼び方に反対したJ.K.ローリングは酷いバッシングにあった。

自分の呼び方に対する意見ですら差別と言われるハンデを負いながら、私のようないわゆるシスジェンダー、身体女性はやっていかなくてはならない。
そのリスクは理解増進法が成立することによって増す可能性がある。

 

 

②女性用スペースの利用について

 

LGBT法案が成立した後の女性用スペースのあり方が変わることを不安に思う声は多い。
国民民主党が維新の党と独自案を出したのもそのことが理由と言っている。

 

それに対し、法案は女性用スペースの運用には関係ないとする声も多い。

ただ、LGBT法案に賛成派中には、風呂については外性器で判断という法律に従うべきとするものの、トイレについては自認で区別すべきと言う人もいる。

下の記事でも女湯についてはデマだが、トイレは自認で良いと言っている。

news.yahoo.co.jp

今でもトランスジェンダーの人が女性用トイレを使ってはいるだろうが、ほとんどの人は女性用トイレが自認の性の区別で良いと考えているわけではない。身体的な女性と見分けがつかないから問題になっていないだけだ。
法案成立によって「トイレは性自認に合ったものを選ぶ」という風潮になれば、性自認が女と言う人、身体的な女性には見えない人も女性用トイレを使っても良いとなってしまうかもしれない。
そういう風に社会が変わってしまえば、女性は女性以外の人が女性用トイレを使うことを認めなくてはならず(拒否することが難しくなる)不安は増大する。

 

女性用トイレを身体で分けて欲しいという投稿をインスタグラムでした橋本愛氏は批判に遭って謝罪し、さらに週刊文春で発表した文は全面的に自分の今までの考えを批判するものとなっている。

bunshun.jp

 

女性が女性用スペースについて意見をすることは今でも簡単ではない。そのまま認めてはもらえない。
もちろん、橋本氏は自らの意思で謝罪したのだろうが、同じ意見(女性用スペースは身体で分けて欲しい)を謝罪せずに貫き通せる人はどれだけいるのだろうか?

 

現地で男性に見える人が女性用スペースを使っていても、それを止めることは逆除されたり、被害を受けたりする可能性があり難しい。

公共スペースでのトイレではない、職場でのトイレについても不安だ。

この記事を読んだときのやりきれない怒りを今でも私は覚えている。

news.yahoo.co.jp

 

私は職場のトイレについては、管理職の人がトランスジェンダーの人と他の職員の人の意見を聞いて調整すべきだと考えている。結果、女性用トイレを利用するということになることもあると思う。
(この記事に出てくる管理職の対応は不適切なものだったと言える)

しかし、この記事では、当事者の香織さんの女性用トイレ利用に反対する女性たちが悪者であるかのように書かれている。

何度も要望を出したのに聞いてもらえなかった香織さんは職場の女性たちに自分のトイレ利用についてのアンケートまでさせている。
(結果は女性トイレを利用しないで欲しいという職員が多数)

その職員の女性たちは香織さんが女性とは思えないと思っていた。妻子がいる香織さんを男性と思っている人も多かっただろう。
女性が男性(と認識する)人の意見(女性用トイレを使いたい)に反対することは心理的な負担が大きい。女性は男性に譲るべきと言う規範を内面化しているからだ。
それでも使わないで欲しいと意見を出した、そのことさえも筆者の松岡宗嗣氏は否定し、感情に訴えている。

シールを貼った人はどういう気持ちだったのだろうか。「同じ女性用トイレを使ってほしくない」という欄に増えていくシールを見て、香織さんが酷く傷つくという思いには至らなかったのだろうか。声をかけてみるということもなかったのだろうか。

このように、女性の意見は軽く見られ、「優しさ」「譲ること」を強制される。

トランス女性の女性用スペースの利用を「嫌だ」と思う人は「差別主義者なのか、我慢しないといけないのか」という言葉も耳にする。これについては、むしろトランス女性こそが、これまで常に”我慢”し続けなければいけなかったという前提を無視してしまっていると言えるだろう。

こういう表現で、松岡氏は実質トランス女性の女性用スペース利用は「我慢しろ。トランス女性の方が我慢しているのだから」と主張している。
トランスジェンダーの権利保護を主張する人たちは、「我慢しろ」とは言わずに実質我慢する-すすんで自分の意見を取り下げることを女性に強要する表現を用いることが多い)

 

この状況で女性用スペースについての認識が変わる法案を通すことは、女性の意見がさらに軽く扱われる可能性が高いと言うことだ。

 

風呂について、今外性器で分けているのだし、そもそも当事者は女湯に入りたいと主張していないという意見がある。

 

endomameta.hatenablog.com

 

しかし、調べてみれば分かるがもう既に男性器を隠して女湯を利用している人はいる。
その人たちがトランスジェンダーかどうかは分からないが、女性に近い見た目をしている人たちではある。
トランスジェンダーではない(と思われる)男性が女湯に侵入して逮捕される事件も多発している。

実際のところは分からないが、男性器のあるトランスジェンダーが女湯を利用したというツイートを庇護した、清水晶子氏の「埋没した棘」という論文もある。

 

 

トランスジェンダーの権利を主張している人たちは、女湯に入って逮捕された男性については絶対に味方にならず否定する。

しかし、平和的に(バレずに)男性器のある人間が女湯を利用することについて、そういう人たちは何も言わないし、庇護することさえある。
他の女性用スペースについてはさらに全面的に自認を認めている。

これでLGBT理解増進法が影響を与えないとは言えないだろう。
LGBT理解増進法を利用して今よりもさらに女性用スペースを利用したいと考える人(トランスジェンダーかどうかにかかわらず)は現れるだろうし、それにトランスジェンダーの権利を主張している人たちは(シス男性だとはっきりしている場合や逮捕された場合を除いて)反対しないだろう。
どう変わるかは分からないが今までとは確実に変わることが予想される。

 

国民民主と維新の案を取り入れて欲しい

LGBT法案がどうなるのか未だ不透明である。

もし成立させるのなら、国民民主党と維新の党が出した対案の内容を取り入れたものにして欲しいと私は思う。

「全ての国民が安心して生活することができるよう留意する」という条文があるが、そんなものは当たり前で必要ないと思う人もいるかもしれない。

しかし、実際にLGBTの人たちの権利と他の人の権利がぶつかる場面はでてくる。そのときにLGBT以外の人(シスジェンダー女性など)は差別者だから切り捨てて良い、というようなことにならないようにして欲しい。

そういうことを確認するために、国民民主党と維新の党が出した法案には意義があると思う。

 

追記(5/30)

www.sankei.com

この記事を読んだことをきっかけに見つけた、「性自認」法令化に反対する声明に署名した。

seijinin-seimei.jp

私自身はLGBT法自体は必要だと思っている。
LGBTの人たちに対する差別はあると思うし、それを止めさせる法律は必要だと思う。

ただ、性自認による差別をしないために行ったことが、女性が不利な状況に置かれる可能性はある(女性トイレをなくしてオールジェンダートイレを設置するなど)
そのためにも、性自認の扱いには注意していなくてはならない。

LGBTの人たちの権利も女性の権利もどちらも大事なのは当たり前だ。
それはお互いの声を聞くことが大前提だ。

声を上げた女性たちの声を差別者の声と切って捨てるやり方を私は絶対に見過ごせない。
その方向性はLGBT法が通ってしまえば、加速してしまう。

この世にはトランスジェンダーと差別者の対立しか存在しないわけではない。
トランスジェンダーと女性が対立することは絶対にある。それを前提に法案について考えて欲しい。

 

 

『対抗言論 vol.3』に載っている笙野頼子『発禁小説集』の批評はメケシ(女消し)だ

1月に発行された雑誌『対抗言論 vol.3』に批評家の杉田俊介氏が「トランスジェンダー/フェミニズム/メンズリブ 笙野頼子『発禁小説集』に寄せて」という批評文を載せている。

 

 
杉田氏が笙野頼子氏に批判的な立場であることは分かっていたが、購入して読んでいることにした。
 
わざわざお金を出して好きな作家が批判されるのを見るのは基本やらないこと(『文藝』は図書館で借りた)だが、私は以前雨宮処凜氏が杉田氏と対談しているのを読んで、惹かれるものがあったのを思い出した。

 

相模原障害者施設殺傷事件についての対談だったのだが、弱者男性としての自分や他者の割り切れなさを見つめ、慎重な議論をしようとする人だと思った。
そんな杉田氏が笙野頼子氏についてどういうことを書いているのだろうと思った。
 
結論を言うと、私が期待していた内容はそこにはなかった。
笙野氏の言葉をそのままでは受け取ってはいけないという信念、曲解した形で受け取って自分の主張で打ち消そうという意思を感じた文章だった。
 
それは「トランス差別」に反対する者であるためには必要なことなのかもしれない。笙野氏のような「トランス差別者」の言葉をまともに聞くことは「トランス差別」に抗う者としてはあってはならないことなのかもしれない。
しかし、私は杉田氏のそういう態度を、笙野氏の言うメケシ(女消し)そのものだと感じた。
 
今回私は杉田氏が笙野氏の言葉をどのように無効化し「トランス差別」に対抗しているか、それによってどのように「女性」を消しているのかを見ていきたい。
 
 
 
 
 
 

1⃣トランスジェンダーの当事者の声は聞こうとするが、TERFと呼ばれる女性たちの声は聞こうとはしない

 
冒頭で杉田氏は笙野氏の「ご主張」について紹介する。
しかし、杉田氏は笙野氏の言葉をそのまま受け取ることはない。
 
杉田氏は笙野氏が自ら考えて発表した主張としてではなく、「道徳的・宗教的な保守派たちが一部のフェミニストと結託した国際的な反ジェンダー運動の中に組み込まれた人間」の主張としてそれを受け取る。
笙野氏は利用された被害者であると見なすことで、一人で物事を考えることのできない無力な存在として見る。その発言をまともに受け取らない。
 
それは「トランス差別」に反対する者なら皆が取るべき態度なのだろう。
 
杉田氏はトランスジェンダーの当事者の言葉を聞こうとショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』などを紹介しているが、女性、特にTERFと呼ばれる女性たちの言葉は聞こうとは決してしない。
トランスジェンダー女性と他の女性とでは人数や認知度や「当事者のパワー」が違うと杉田氏は言うが、その非対称性があったとしても、声を聞かない理由にはならない。
 
笙野氏のようなTERFと呼ばれる女性は、一方では宗教右派、カルト宗教団体などの勢力に取り込まれデマに踊らされる無力な存在とされ、一方では圧倒的に人数や権力がある強者であると見なされる。
声を聞かないための理由が作られる。
「女vsトランスジェンダー」という対立はないことにされる。
「トランス差別」に反対するために、そんな対立はないと言わなければならないのだろう。だから、声を聞かない理由を作る。
 
 
 

2⃣(トランス女性を女性以外とする考えを許さないために)身体的な男性と女性の違いを認めない

 
杉田氏は笙野氏の言葉に耳を全く傾けない訳ではない。
笙野氏が「男」を恐怖し、遠ざけようとすることにたいしてはある程度共感を示しているし、それを前提に「男」である自分がどういう態度を取るべきか考えてもいる。
フェミニズムは「女」のためのものと言うし、「男性抹殺願望」を内在させるべきとも言う。
 
しかし、そこで扱われる「男」は「シス男性」のことである。「トランスの人々」は「男」ではないとされる。はっきりとは言われていないが「『女』たちの男性抹殺願望はトランスの人々に対してではなく『男』たちの方へと『正しく』向けられるべきではないか、という介入を行うこと」(p376)といった文章からそれが読み取れる。
 
杉田氏は身体的性別(生物学的性別)を取りあげない。杉田氏は身体的な性別について無頓着なところがある。
たとえば、海老原暁子氏の著書『なぜ男は笙野頼子を畏れるのか』を取り上げた箇所がある。
 
「男性陣は『戦う美少女』がお好きなようだ。(略)反対に、本気で戦うデブでブスでしつこくて目つきの悪い短髪のおばはんを男は嫌い、恐れる。(略)生涯性交しないと宣言し、精神的にも経済的にも男に依存しないおっかないおばはん。あー溜飲が下がる。すっきりする。笙野頼子の気持ちの良さは女にしか分からない」
この海老原氏の文に対して杉田氏は「『あー溜飲が下がる。すっきりする。笙野頼子の気持ちの良さは女にしか分からない』という共感の挨拶が、どこか去勢と射精のホモソーシャリティを感じさせるのも、何重にも捻くれている」とコメントしている。
 
男性(射精をする身体を持つ性)が語る言葉を独占し続けていた歴史があり、女性たちは長らく自らを語る言葉を奪われてきた。
今は言葉を取り戻す戦いの中に女性は生きている(と私は信じている)。そんな女性の一人である海老原氏が笙野氏という存在に出会った喜びを語っている箇所にたいして、杉田氏は「射精」という言葉を使う。
そこに私は男が無神経に女性の言葉を奪う現場を見る。
もちろん女性が自分のこととして「射精」という言葉を使うことはある。たとえば性的な気分が極まったときに「射精する」と実際には射精していなくても(できなくても)言ったりすることはある。
しかし、女性があえて自分のこととして「射精」を使うことと、男性が別の言葉を使っている女性に対して勝手に「射精」の言葉を当てることは違う。
女性が女性のやり方で言葉を得て他の女性と繋がろうとしているときに男性目線で言葉を掛けることは乱暴だ。
 
私はそこに男の傲慢さを見るが、身体的性別を認めないことが「トランス差別」に反対することであるなら、それは正しい態度なのかもしれない。
 
身体的性別は重要視してはいけないというルールを守ることで必然的に性自認の価値が高くなる。
トランス女性は女性で、トランス男性は男性としか言えなくなる。
シス女性とトランス女性のマジョリティ/マイノリティ性は強調されるが、身体的女性と身体的男性のマジョリティ/マイノリティ性は話題にならないし、なってはいけないとされる。
 
杉田氏は笙野氏やフェミニスト女性たちの立場のことも考えているように見えるが、「トランス差別」に反対する立場に立つためのルールを忠実に守っている。
だから女性の立場の立つといっても、あくまでそこにはトランス女性が含まれているし、含まれないことを許さない。身体的な違いを話題にすることは避けられる。
身体的女性の立場には立たないし、そもそもその存在を否定している。
 
 

3️⃣未来的な予想を基に、今の現実を生きる女性を無視する

 
杉田氏はショーン・フェイ氏やパトリック・カリフィア氏の言葉を引いて、将来的には「男性」や「女性」という概念はなくなるまたは今のままの意味での「女性」「男性」ではなくなると解放的な将来を夢見ている。
カリフィア氏の言葉を2回引用し、2回目は最後の結びとして引用するくらいに入れ込んでいる。
 
「もしわたしたちが本当に自由を求めるなら、この闘いの果てに女性はもう女性ではなくなる、ということを理解しなければならない。あるいは少なくとも、今日わたしたちがその言葉を理解している意味では、女性でなくなるだろう。男性もまたパラダイムとして、無傷で残ることはない。それでもわたしたちは男性以上ではないにせよ、少なくとも男性と同じ程度には変わらなければならない」
 
杉田氏は未来の理想を思い描いて、今の男性と女性が持つ差から目を逸らす。
弱者男性として、杉田氏は男性学的な生とトランスジェンダー的な生を「違和」によって接合しようという藤高和輝氏の「違和連続体」という概念にも惹かれている。
「違和連続体」の概念によって杉田氏のような男性は生きやすくなるかもしれないが、グラデーションであることを強調することでいまある男性と女性の差を曖昧にしている。
 
女性であることで起きる困難や女性ではない人との違いについてはうやむやになってしまう。
線引きをしないことが正しく、望ましいとされる。
 
性別はグラデーションである部分もあるだろうが、線を引くからこそ自分が何者であるかを理解しやすくなったり、自分の困難を他者の共有し助けを求めやすくなる女性がいるかもしれないのに、線引きが悪いことであるかのように思わされてしまう。
引用のカリフィア氏の言葉は、女性は女性のままでは解放されないということだ。
自分の今のあり方を否定しなければ、今の自分ではないものにならなければ解放されない女性というものは何なのだろう?
差別されている属性には様々あるが、女性のように自分が受けている差別を解消するために自分の在り方を変えるように言われる属性はあるだろうか?
 
女性が女性のままであることが認められないことで、女性は主体性を奪われる。
女性用スペースに関してもそうで杉田氏ははっきりと、トランスの人が「プレデター」である可能性を認めながら、女性は必ず受け入れなければいけないと言う。
 
トランス的な他者がプレデターである「かもしれない」という可能性。その可能性を見つめつつ、しかし決してあるスペースからトランスの人々の存在を排除しないこと。どんなに居心地の悪さを感じたとしても、恐怖を感じても、それをヘイトにせず、差別の理由にしないこと。
またこうも言っている。
それだけではない。ここは絶対に認めねばならない。他者とは根源的に――これもまたもはやトランスの人々に限られないことを強調したい――なりすます他者、騙す他者でもありるのだ。
 
女性(もともと女性トイレを使う権利があるとされてきた人々)とトランスの人、その他の人々の境目をなくしてしまい、もっともらしい理屈で女性の拒否権を奪う。
「シス女性も性犯罪を犯すことはある」と言われることがあるが、実際「シス女性」とその他の人々(男性と分類される人々)の間の性犯罪者の人数には大きな差がある。
 
女性は性犯罪の被害を身近に感じ、自衛しなければならないというプレッシャーの中で生き、「恐怖」を感じながら「恐怖」を自衛に利用して生活してきた。
 
その「恐怖」に対して杉田氏は冷淡だ。
それでも未来的には女性と男性の境目はなくなり「違和連続体」の中に溶け込んでしまうのだから、それが解放なのだから、杉田氏が女性に冷淡だろうが問題はないということなのだろう。
またシス女性の側には決して立たず、トランス女性(「プレデター」である人も含む)の味方に全面的に立っているから杉田氏の言葉は「トランス差別」に反対する者としては妥当なものとなる。
 
 
 

4️⃣まとめ

 
杉田俊介氏の批評は、笙野頼子氏の言葉を悉く打ち消し、「トランス差別」に反対するための型に収まったものだった。
宗教右派」の「デマ」だからまともに聞く必要がないと断定する。
身体的性別を否定することにより、トランス女性は男性ではなく女性となり、女性の中でもマイノリティの女性となる。
さらに性別をグラデーション/スペクトラムとすることで男性と女性の境目をなくしてしまう。
 
杉田氏の言うとおり、遠い未来では男性と女性の境目はなくなり解放されるのかもしれない。
何らかの技術で生理や出産を女性は経験することはなくなるかもしれないしスポーツなどで男性との肉体的な力の差を感じることもなくなるのかもしれない。
 
しかし、今現実の世界を生きる女性、特に出生時から女性の身体とされる身体を生きてきた女性にとって、身体的性別の否定や性別の違いの曖昧化は、自らの困難を見つめることや語ることを否定する。
杉田氏がしているような言葉や型を用いて「トランス差別」をしないように自分の身体や自分が使うスペースについて語らなければならないのなら、女性は自分が自分らしく生きるように考えたり選択したりすることも難しくなってしまう。
ある意味もう「女消し」は始まってしまっていると言える。
 
 
笙野頼子氏が「女消し」という言葉を使用したことで、今現在日本や海外で起きている状況を的確に表せるようになった。
 
杉田俊介氏が聞こうとしない、歪めて受け取ることが「トランス差別」に反対する者としての振る舞いとされている笙野頼子氏の言葉は、今現在生きる女性たちにとって必要な言葉だ。
 

6日には笙野頼子氏の新刊が出る。

 

【フェムテック】前回の記事についての補足と反省+稼がない女性(専業主婦)

大分間が開いてしまったが、前回の記事で、生理中に入浴する際に使用するバスボムについて「女性の意見を聞いて欲しい」と書いた。

女性が関わっているのは当時からっていたが、どこまで関わっているのか分かっていなかったからだ。
しかし、その後別の記事を見たら、4人チームのうちの3人が女性で、他の女性の声もアンケートなどで聞いた結果の製品開発だったらしい。

nlab.itmedia.co.jp

詳細を知らずに勝手に背景を推測して記事を書いてしまったことについて反省したい。


生理の時に入浴してはいけないと思っている人もいるのかと私にとっては発見だった。
私は生理のときも気にせず入浴するが、家族には不快な思いをさせないように気をつける。このバスボムを使っても解決出来ないので使う意味が見出せなかった。
でも、それは人によるなと思い直した。


生理といってもその症状やそれにまつわる思いは一人一人違う。
そのことについて一人一人が分かっていないといけないと思う。

 

それとは別に、フェムテックについてはもやもやした気持ちもある。

フェムテックは生理などの女性の不調に対処する製品を開発して商売をするという会社の働きである。
それによって女性の不調が和らぎ生産性が上がるというのもあるが、フェムテック製品が売れるだけでも生産性がある。


女性の権利を守るという動きの中に、女性がお金を生み出すという役割を見出すやり方があるということだ。
フェムテックは「女性の体の問題を解決するものであるが、ある意味、女性の体を使ってお金を生み出す技術である。

 

12月14日の朝日新聞の夕刊にフェムテックについての記事が載っていた。

バスボムの件についても書いていて、「『生理は隠すべきもの』という固定的な見方を再生産してしまう商品だと思います」と書かれている。

digital.asahi.com

 

この記事ではフェムテックで解決できる問題と社会構造を変えないと解決できない問題があるとされる。

フェムテックのすべてを否定しませんが、いびつな社会構造を是認したり強化したりしないかが問われています。生理でも休めない環境、学校での性教育の不足といった課題が解決されなければ、生理の悩みに一人で耐える状況は変わりません。

 

フェムテックで女性の悩みをすべて解決できるわけではない。

それでも、女性にまつわる問題について考えるときにやはりお金を生み出す領域は強い。

 

それはフェムテック以外についてもそうだ。

女性が男性のように働き経済力を付けるべきという考えもそうで、もちろん女性自身の幸せに直結するが、社会にとっても女性が役割を得る、つまり役に立つ存在になる。

「男並み」に働くから男性と同じように評価して欲しいという女性の主張は最近かなり認められようとしている。
ただ、それだけで全ての女性が幸せになれるわけではない。
「男並み」に働けない、「男並み」とはいかなくても「一人前」の金を稼げない、稼ごうとしない女性についてはあまり考えられていない。ただの努力不足のように見られてしまうことも多い。

 
でも、女性ならではの事情だったり、女性とは関係ない事情だったりで、お金を稼ぐことが難しい女性はいる。


私が関心があるのはやはり専業主婦のことで、Twitterなどではとにかく叩かれがちだ。

少し前にも専業主婦の仕事を賃金換算したら年収1300万円になるという、試算を取り上げて専業主婦がネットで叩かれていた。

年収1300万円なんてありえない、専業主婦は自分を高く見積もりすぎだということだ。

hochi.news

hochi.news

ニュースを貼っていて思ったが、こういう記事で意見を聞かれるのが必ず大学教授などの専業主婦ではない女性というのもまたモヤモヤするポイントだ。
 

「専業主婦を批判するな」「専業主婦という生き方も認めるべきだ」とまず言うべきだと思うのに言わない。結局男女ともに仕事も家事も分担する形を推進したい、専業主婦は減って欲しいと思っているんじゃないかと勘ぐってしまう。
もちろん主婦だけではなく主夫も増えるべきだし、仕事と家事を分担する共稼ぎ夫婦の方が金銭面では安心だし、他の面でもメリットがあるだろう。
しかし、だからといって専業主婦は叩かれるべきではないし、人生の選択肢として否定されるべきではないともう少しはっきりいて欲しい。

 

話を戻すが、専業主婦自身が自分の年収を1300万円と言っている意見はないとは言わないがほとんど見たことがない。
ほとんどの専業主婦は自分が年収何千万円だということが言いたいわけではなく、金銭換算して何円かはともかく全く価値がない人として見て欲しくないだけだろう。

専業主婦の仕事とされる事は賃金労働とはいろいろな面で違うので単純に比較はできないだろう。
家族に代わってもらえない限りハッキリとした休みを得られない(年中無休)のことが多いが、賃金労働のような重圧はないことが多い。


そこで、いかに専業主婦が賃金労働とは違う労働を行い役にたっているかをアピールするべきなのかもしれない。
でも、専業主婦といっても一人一人違うから、万人に当てはまるアピール点を探すのは難しいかもしれない。

 

障害者の権利運動について調べることがあるが、「役に立つかどうか」という視点で障害者が見られることに対する反論を見かけることがある。
そこで役に立っていないように見える人でも実は役に立っているのだと言われたりする。
そもそもそんなことを問う方に問題があると言われたりもする。


専業主婦についても、これといってアピールできる役に立つ点はないかもしれないが、人それぞれに役に立っているのだと言っていくしかないような気がする。

 

そういう、賃金労働をする女性と比べて役に立つ度が低そうに見える(実際はともかく)専業主婦は独自の方法で自分の存在を肯定していかなくてはいけないと思う。

 

とはいえ、SNSのおかげで専業主婦の考えや実態が知られやすくはなったと思う。

私が約10年前に子を妊娠〜出産した頃、参考にとよく育児漫画(コミックエッセイ)を読んでいた。
そういう作品はほぼ全て保活(保育園探しの活動)の話があって、初めて子供を預ける話もあった。

私といえば色々あって妊娠時に仕事を辞めてしまったので、その下りを見るのが辛かった。
保活や赤ちゃんのときから預ける辛さは味わっていないが、仕事をしていないという状態に対する不安や罪悪感はあった。でも、そうするしかなかったという実感もあった。
なぜ働いている人の話ばかりなのだろう?と思ってしまった。働いていない人の辛さをカバーするコミックエッセイはないのか?と思った。
コミックエッセイを描くような人はそれを仕事にしている=働いている人だから、働いている人しかコミックエッセイを商業出版で出さないのだろうと結論付けた。


そういう意味では、SNSで専業主婦の考えを表現したり見たりしやすくはなっている。
(私が子を出産した頃もSNSはあったが見ていなかったのでよく分からない)
ただ、やはり専業主婦は叩かれがちなので、表現するのは難しい部分もある。


しかし、いくら時代が変わっても全ての夫婦が共働きでやっていけるわけではないだろう。

大体、専業主婦ばかりが叩かれるが、共働きで家事育児を分担している夫婦よりも専業主婦の夫の家事育児負担は低いことが多いだろうから、専業主婦の夫もある意味楽をしていることが多いはずである。しかし、そこは責められず専業主婦ばかりが責められる。

仕事に一極集中したい人や家事育児に一極集中したい人、どちらかしか負担できない人はいるのだろうから、そこは尊重して欲しい。

離婚や死別したら路頭に迷うから働くべきとも言われがちだが、将来のために今無理しても続かないだろう。専業主婦本人だけでなくその家族にも影響が出てしまう。
もし働きたいと思ったら何歳になっても働ける社会であって欲しい。
私も今は専業主婦の選択が最適と考えているが今後はどうなるか分からない。でも、今の専業主婦の期間を仮の姿や助走状態であるとも思っていない。


専業主婦が自分の存在価値を示すために年収換算で〇〇万円とかこれだけ忙しいと一日のスケジュールを出してくるのは筋が悪い。
人それぞれに違うから、専業主婦はこれ!と見せられるものではない。


お金を稼げる者が強い、または価値があるとされる社会で、また何でも可視化することが大事とされる時代で。
専業主婦の人はたとえ不利になっても、役立ち方が見えにくいことに価値を見出すべきだと思う。
それこそが人それぞれに生きているということなのだから……


フェムテックなとで女性が女性特有の不調を和らげると同時に経済を活性化すること、また女性が働いてお金を稼ぎ自分の幸せを掴み取ること、そのための制度を整備することは両方大切だ。
しかし、その対極にいる役に立たないとされる女性性についても考えたい。
私にとってそれが専業主婦だったということだ。


特に最近は発達障害のある女性が働けずに結婚〜出産し、その子も発達障害というケースがよく叩かれる。
(私もそこに当てはまるかもしれないから根に持っている)
親ばかりか子供も働けない可能性があるということで役に立たないし、逆に害しか(社会にも子供にも)与えないとされるから叩かれるのだろう。
生きている人間に対して資産や負債のように見てジャッジを下す人は多い。役に立つ人は資産であり、役立たずだったり害を与える人は負債であると見做される。
そう見做される本人もそういう考えを内面化して自己否定したりする。


そういう役に立たない(ように見られがちな)女性についてこれからも考えていきたい。

FUCK THE TERF のプラカードが公式にOKとなったこと、10月14日の荻上チキ・Sessionでの清水晶子氏の発言についてなど

 

TERF(トランスジェンダー排除的ラディカルフェミニストの略だが今の日本では少し異なる意味で使われることが多い言葉)に関する、私が気になっていることをいくつか書いていく。

私はTERFと呼ばれる考えを持つ人間であるから、人によっては不快な思いや負担を感じるかもしれない。

 

①FxxK THE TERFのプラカードを「全く問題ない」とした東京トランスマーチの主催であるTransgender Japan

 

11月12日に行われた東京トランスマーチ2022において、「FUCK THE TERF」という文字の書かれたプラカードを持った人がいて、写真を撮られていた。
そのことについて批判があり、主催であるTransgender Japanが見解を出した。

 

march2022.wp.xdomain.jp

 

結論から先に言えば全く問題ありません。これは、特定の個人・団体・集団などへの攻撃ではなく『私たちを執拗に差別・排除しようとする思想』だからです。私たちは私たちを社会から排除しようとする行為に抵抗します。また、私たちを排除しようとする行為に抵抗する権利を有しています。

 

「全く問題ありません」ということだが、そのことについて考えてみたい。

 

(1)FUCKという言葉の意味について

 

FUCKという言葉は良くない言葉(気軽に口に出してはいけない言葉)ではある。

FUCKという言葉には確かに性交という意味がある。とはいえ、性交の意味で使うことは少ない。「くそったれ」「畜生」みたいな意味がある。

 

ejje.weblio.jp

 

「FUCK THE TERF」の意味は性交を意味するよりも「くたばれTERF」といった意味だろうとは思う。
しかし、辞書で言葉を引くと一番に出てくるのが「性交」の意味なので、FUCKという言葉になじみがない日本人が辞書を引くことで「性交」の言葉を見て強い印象を心に残すかもしれない。

私もそうだった。中学生のときに海外へ行く機会があったときに、現地の生徒たちが「FUCK」という言葉をものすごい頻度で使っていて、「何だろう?」と疑問に思い調べたら「性交」の意味があってショックを受けてしまった。


私が世間知らずだったのだろうが、当時の私は世の中で女性がレイプされる事件や、レイプする対象として男性に見られることがすごく多いという事実をやっと認識し、自分もその一人となる可能性があるのだということを自覚させられてきた時期だった。
そのことについて世間は全然重要に考えていないし、逆に被害者の方を責めることが非常に多いことも当時やっと知った。


私がそういう時期だったことがあって、「性交」の意味の言葉が海外で当たり前に頻繁に使われていることに私は敏感になってしまった。
世間で性暴力、性被害がとても軽く扱われていることと、「性交」の意味を持つ言葉が気軽に使われている状況に関連性を見てしまった。現地の生徒たちからしたら笑い者かもしれないが…


それは私が日本で生まれ育ち、日本語しかほとんど触れてこなかった人間だったからで、英語を主に使用する人たちの中で生まれ育ち、英語に主に触れてきてきた人間にとっては「FUCK」は全く違う印象を持つ言葉なのだろうとは思う。
同じように日本語しかほとんど触れずに生まれ育った人の中でも私のようなナイーブな反応を示す人の方が少ないのかもしれない。

しかし、「FUCK」がいくら「性交」の意味で使うことが少ないといっても、英和辞書の第一の意味は「性交」であることは意識するべきことだと思う。
日本で行われたトランスマーチで「FUCK THE TERF」という言葉を掲げることで、掲げた本人の意図とは別の、より強い印象を感じた人間がいるかもしれない。

 

(2)黙認することと公式にOKを出すこととは違う

 

トランスマーチに「FUCK THE TERF」という言葉を載せたプラカードを持って歩く人がいたこと自体は、強い表現に感じる人もいる可能性はあるが悪いとは言えないと思う。

しかし、トランスマーチの主催であるTransgender Japanがわざわざ見解の記事を出してまで、「全く」という強調表現までつけてまで「問題ない」と認めることは、私は良くないことだと思う。

TERFという女性が多く含まれる集団に対し、「性交」の意味がある言葉をぶつけることは、人によっては強い表現に思うだろうし辛い思い出を刺激することにもなるかもしれない。他の表現にしたら傷つかなかったであろう人々が傷つくことになるかもしれない。
そのようなことを「全く問題ない」とすることは、私は良くはないと思う。

多くの政党や団体が賛同を示し、有名人も多く参加したトランスマーチが、ある種の人間にとっては堂々と強い表現で傷つけられることが許されている場となってしまう。

確かに、私たちをTERF=執拗に差別・排除しようとする思想であるならばFUCKという強い言葉を掛けられても構わないという考えも妥当かもしれない。
実際TERFという言葉は「執拗に差別・排除しようとする思想」を表現する言葉なのだろうか?

私が見る限り、TERFという言葉を思想に対して使う人は多くない。ある種の人間に使われることが多い。

前に書いたように、TERFを自称する人間はまずおらず、他人に呼ばれる名となっている。

 

hananomemo.hatenablog.com


TERFと呼ばれる人たちはトランスジェンダーに対して、他の女性たちとは違うということを言ったり、女性用スペースに入ってこないで欲しいということを言ったりする。

トランスジェンダーの人たちの中にはそのような発言や思想がTERF、「私たちを執拗に差別・排除しようとする思想」に見えるのかもしれない。TERFという言葉はほとんど思想ではなく人間に掛けられていると思うが…
だから、FUCKと呼ばれたり他の罵倒語を掛けられても仕方ないという理屈なのかもしれない。


しかし、TERFと呼ばれる人間の考えは「執拗に差別・排除しようとする思想」だけではないと私は思う。FUCKと言われても仕方ない思想ではないと思うし、そう言われても仕方ない人間ではないと思う。

 

次に、10月14日の荻上チキ・Sessionにおいて気になった発言について書く。


②10月14日の荻上チキ・Sessionにおいての「特集『トランスジェンダー国会が初開催~注目される“トランスジェンダー問題”とは』高井ゆと里×清水晶子×荻上チキ×南部広美」における気になる発言について

 

荻上チキ・Sessionの10月14日放送分において、「特集『トランスジェンダー国会が初開催~注目される“トランスジェンダー問題”とは』高井ゆと里×清水晶子×荻上チキ×南部広美」という特集が放送されていた。Podcastでも聴くことができて、興味を持った私はSpotifyで聴いた。

 

TBSラジオ「荻上チキ・Session」

TBSラジオ「荻上チキ・Session」

  • TBS RADIO
  • ニュース
  • ¥0

 

そこで、トランスジェンダー国会のことや書籍「 トランスジェンダー問題」についてなど、トランスジェンダーに関わる話題について群馬大学准教授の高井ゆと里氏と東京大学教授の清水晶子氏がゲストとして話をした。

大体は私も賛同できる話題だったが、清水晶子氏の発言で引っかかる部分があったので、そのことについて書く。


(1)清水晶子氏の発言


後半40分前後のところで、話題は書籍「トランスジェンダー問題」でも取り扱われているトランス排除的なフェミニストの話になる。

そこで清水氏は、1970年代からトランスジェンダーフェミニズムの関係が何度も議論になっていたがフェミニズムトランスジェンダー排除の意見に反対してきたこと、1980年代には収まっていたはずのトランス排除的な言説が2010年代から再燃してきたことを話す。

ところが、清水氏は「この話はしたこと、過ぎたことであって、フェミニストとしてはここにいつまでもとらわれてはいけない」と話を止めてしまう。代わりに宗教右派の話を始める。

日本だと、非常にトランス排除というのを陰に日向にすすめてきた集団として、それこそ旧統一教会というのがもう分かっていて、そういう宗教右派だったり道徳右派だったり保守派だったりするのが非常に攻撃しているところにフェミニストが使われてしまう。
その人たちは別に女性の権利とかって思っているわけではなくて、より広いいろいろな利害関係のために全部…セクシャルマイノリティも女性の権利もあるいは人種的なマイノリティの権利もまとめて潰していこうとしているのに、そこにフェミニストが乗ってしまうことに今の段階だとなっていて、それは非常に危惧すべきことだと思っています。


1980年代には収まっていたはずのトランス排除的言説がなぜ2010年代に再燃したのかということには触れず、宗教右派の話でまとめてしまう。
2010年代のトランス排除的言説の再燃が全て旧統一教会などの宗教右派たちの働きによるものだと清水氏は思っているのだろうか?私はそうは思わない。

トランス排除的なフェミニストがどうしてそういう考えを持つようになったのかについては見ないことにしよう、旧統一教会宗教右派といった、多くの人々に明らかに悪であるという印象を与える言葉を用いてトランス排除的なフェミニストも明らかな悪であり聞くべき意見などない存在と思わせようという清水氏の意思を感じる。

トランス排除的とされる女性たちの意見は清水氏のような人には聞かれることはない。
笙野頼子氏が苦渋の判断で山谷えり子氏に投票すれば、それだけを見て右派だ旧統一教会だと言われる。なぜそういう判断をしたのかという事情には誰も触れない。

私は旧統一教会宗教右派などに私は取り込まれたり利用された覚えはない。旧統一教会宗教右派は基本的に全女性の権利を奪おうとしていることくらいは分かる。
だから乗りたくない。だからといって他に乗れる場所もない。それでも、私は譲れないものがあるからトランス排除的と言われる人間でいるしかない。

(2) 高井ゆと里氏の発言

高井氏はノンバイナリの自分がフェミニズムに救われてきたことについて話す。性別というものが考えられるものだという考え方に救われたと言う。そのフェミニズムが「あからさまに誤った主張」にいっていることを高井氏は指摘する。

 

再びフェミニズムがそうして性別というものは人間が仕組みとして回しているものじゃないんだと、あるものなんだ、そこから誰も逃れられないんだ…先ほど本質主義という指摘がありましたけどそこにもう一回回帰してしまって、そうした与えられた男性や女性っていうのはのがれがたく、人々に同じ経験をもたらすんだ、あからさまに誤った主張に排除的なフェミニズムがいっているのはとても残念なことだと思っています。

私は高井氏の主張に私は全面的に反対しているわけではなく、性別には人間が仕組みとして回している部分もあるとは思う。

ただ、性別のなかにはただあるもの、生まれたときから身体の特徴として男性と区別できるもの、そこから逃れることができないとは言わないでも逃れることが難しい部分もあると私は思う。

すべての女性が同じ経験をすることはなくても、身体的に女性である人の多くが経験すること、そうでない人が経験することが少ないことは存在すると思う。女性は生まれながらに(身体的に)女性であるということを本質主義であると否定することで、女性として生まれたことの困難について語ることが難しくなる可能性がある。

女性について「身体的に女性である」と医師に判別された人とそうでない人は違うと言えることによって、女性が自分が属するカテゴリの身体と他の身体には違いがあるんだと認めることができるようになる。それによって、自分の困難を認めたり周りに伝えやすくなることがあると私は思う。

高井氏は身体が女性(誕生時にそう判別された)ことよりもジェンダーアイデンティティが女性であることの方を重要視している。トランスジェンダーの人が様々な手段で女性に身体を近づけていることを指して「女性の身体という言葉が何を指すのかはっきりしない」と言ったことを放送の冒頭で言っている。

ホルモンの摂取や整形手術などで女性の身体に近づけたトランスジェンダーの身体はどちらに分類されるのかという問題提起をしているのだが、生誕時に女性と判別された身体というものがあることを軽視する発言だと私は思う。

高井氏のブログにおいても、こういう記述がある。

トランスジェンダーは、「誤った談義(おしゃべり)」のネタにされ続けています。日本でも、ここ3~4年で急に。これまでトランスのことなど全く興味もなかった人たちが、急に騒ぎ立てて、社会のすき間を生きさせられてきたトランスたちをすき間から引きずり出して、本当は女性アスリートや女性受刑者の生活など興味もないくせに、「トランスジェンダー問題」に限ってその話題に飛びつく人たちがいます。

 

私はスポーツを見るのが好きではないが、それでも女性スポーツとトランスジェンダーについてのニュースには興味があるし意見もある。そのことについて「本当は興味もないくせに」と言われることに怒りを感じる。

身体女性は身体男性よりも体格的に劣ることが多く、そのせいで不本意な扱いを受けたり、身体男性のように動くことができずに悔しい気持ちを抱くことがある。

私自身、小学校高学年の頃はクラスで一番腕相撲が強くて男子達に尊敬の眼差しで見られていたが、年を取ると男子との違いを思い知ることになった。

それとは関係なく運動は元々苦手だし嫌いだからスポーツにも興味が持てず、オリンピックやワールドカップのときには居心地が悪い。

それでもスポーツを楽しんでいる女性をテレビなどで見ることがある。「同じ女性なのにすごいな」と励まされることがある。
女性がスポーツをする権利は元からあったものではなく、昔闘ってその権利を勝ち取った女性がいるからだ。力の差がある男性と混ぜられて競争させられると女性であることを意識せざるをえないが、女性という枠組みの中で競争することで萎縮することなく女性は自分の力を発揮することができる。

そういう場があること、そこで活躍する女性がいることに私は励まされる。それは同じ女性の身体を持って生まれた人であるという前提があるからだ。
トランスジェンダー女性が活躍していても同じ思いを抱くことはできない。生まれたときに男性と判別される身体を持っていた人を女性の身体を持つ人とスポーツにおいて同等だとは私は思えない。

トランスの人からしたら女性の身体、男性の身体なんてはっきりとしたものはないし、私が女性スポーツ選手を見て抱く思いも偏見でしかない、と言いたいのかもしれないが、私からしたら日々その存在を意識し、また意識せざるを得ない状況で生きているから意見を言いたくなる。

女性受刑者についても同様で、そもそも犯罪者には男性が多いし特に性犯罪は男性から女性に対してされるものが圧倒的に多い。また刑務所内強姦事件も国内外で起こっている。

囚人という立場とはいえ同じ女性として罪を償うこととは無関係の性犯罪によって傷つけられること、自由がない代わりに保護されているべきである刑務所内ですら性犯罪が起こってしまうことに私は心を痛める。そういったことがないようにして欲しいと同じ女性として思う。

もちろんトランス女性も性犯罪に遭うべきではないが、他の女性と同じように扱うことを問題ないとは私は言えない。

 

今まで興味がなかったとしても、トランス女性の人がスポーツで女性競技に参加したり、そのことに反対した者が差別者と言われたり、トランス女性の人が女性と同じ刑務所に入ったり、そこでトラブルが起きたり、というニュースを見てしまえば興味を持たないことは難しい。
トランスジェンダーに興味があるからではなく、私の属するカテゴリ-女性…身体女性に関係しているからだ。

私には譲れないものがある。次はそのことについて書く。


③TERFの意見~女性用スペースのこと、女性の身体のこと

 

私が譲りたくない思い、それは女性(身体女性)が自分のための言葉を失わないことだ。
TERFと呼ばれることで、その言葉はTERFなんだ差別なんだと思うことで、女性が自分を語るための言葉をなくしてしまってはいけない。

 

(1)女性用スペース

 

主張することでTERFと呼ばれる意見は色々あるが、たとえば女性用スペースについてのものがある。

その意見の中にも幅があるが、それに対するトランスジェンダーが女性用スペースを利用しても問題ないと考える立場の人はトランス女性が女性用スペースを使えなくすることで性犯罪を減らす根拠はないと言う。

実際に海外ではトランスジェンダーの人も当たり前に女性用トイレを使っていても犯罪は増えていないというデータがあると言う。

女性トイレからトランスジェンダーを排除することには根拠がないという理由で、トランスジェンダーの女性利用を受け入れる以外の意見は差別される。しかし、私はそれを差別とすることはトランスジェンダー女性以外の女性にとって危険な考えと思う。

そもそもそのトイレの置かれている状況や国の違いもあるので、日本で同じように犯罪が増えないという保証はない。

 

さらに、女性用スペースについて実際にそこを使っている女性が意見を言えなくなる、トランス女性が女性用スペースを使っても良いと言わないと差別主義者になるという状況が影響を及ぼすこともあると思う。女性が自分の安全のためのスペースについて自分で考えて自分の言葉で伝えることを難しくするからだ。

もともとは女性用トイレは昔はなくて、共用トイレしかなかった。そこで女性が性被害に遭うことで、女性トイレは権利として獲得された。

性的な被害に遭いやすい女性は女性トイレを使うことで安心感を感じることができる。男性が女性トイレに侵入する事件は多いが、入りにくい女性トイレの位置を考えるなどでさらに安心感を高めることもできる。
トランスジェンダー女性も女性トイレを使えるという考えが浸透し、さらにそれに対して慎重な意見を表明した女性がTERF、差別主義者と呼ばれる社会になったときに(トランスジェンダー以外の)女性の安心感に影響が出るだろう。

「何も変わらない。男性に見える人が女性トイレにいたら女性は通報をすれば良い」という意見も見るが、トランスジェンダー女性と男性を見分けなければならないのは通報する際に負担になってしまうだろう。

「通報すれば警察や施設の管理者、周囲の人に助けてもらえる」という安心感があるから通報できるが「トランスジェンダー女性を通報した差別者と非難される」リスクがあれば通報するハードルは上がってしまう。

トランスジェンダーの女性トイレを使う権利を守ろうと主張する人は通報すること=差別者ではないと考えるかもしれないが、世間一般の人はそういう複雑な理解はできない人も多いだろう。
なんとなく「トランスジェンダーの女性は女性トイレを使う権利がある」という意識を世間の空気の変化で持つことになった人は「トランスジェンダー女性に見える人がトイレを使っているのを通報した女性」を見れば「トランスジェンダー女性のトイレの利用を排除する=この女性は差別している」と考えることになる可能性がある。
そういう単純な理解しかできない世間一般の人々の中で、トランスジェンダーのトイレ利用についての理解が変われば、「女装した男性に見えるが、トランスジェンダー女性の可能性がある人」を通報することが女性にとって困難になる。

トイレばかり言ってしまっているが、私にとっては重要なことなので言わざるを得ない。女性がトイレを使うことだけではない問題があるからだ。
それは女性が自分を主体として考えるということだ。

トイレを安心して使えるためには、まず女性が自分がトイレを安心して使っても良いと考えることが必要だ。
男性からの性被害を警戒して生きる日常を送る女性にとっては、男性を避けること拒否することで、トイレを安心して使えると考えることができる。

女性トイレを使うのは私であり私が意見を表明することができると自分を主体と考えることで安心感は持てる。トランスジェンダー女性の女性トイレ利用の権利を主張する人がそれに反対する人は差別者だと主張されると、トランス以外の女性は女性トイレの利用についての意見を主張することが難しくなり自分を主体と考えることが難しくなる。

私はそうなってはならないと思っているから、女性はトイレのことについて話すことをためらってはいけないと思う。


(2)女性の身体

荻上チキ・Sessionで高井氏はトランスジェンダーについて「身体は男性で心は女性」(トランス女性の場合)の表現について実情に合ってないと言っている。今はトランス女性または男性の身体を男性であるまたは女性であるということは言ってはいけないこととされている。
「割り当てられた身体」というのが正しいと言われる。
もちろんトランスジェンダーにとっては性自認ジェンダーアイデンティティこそが自分の性別であるから、生まれたときに身体の特徴から判別された性別をそのまま受け取りたくないという気持ちはあるのだろう。トランスジェンダーじゃなくても受け取りたくない人はいるかもしれない。

ただ、その気持ちとは別に、身体の性別は存在している。女性よりも男性の方が体つきが大きくしっかりしていることが多いし、多くの女性は生理があったり、性行為をすれば妊娠の可能性があったりする。

個人差とは片付けられない大きさの違いがある。身体的な女性、男性というものがないと言ったり、曖昧だと言ったりすることで女性が身体的な女性の特徴があることにマイノリティ性がないとされてしまう。
力が弱かったり、生理があったり、妊娠の可能性があることが人それぞれの個性の範疇になってしまう。

トランスジェンダーの権利を主張する人の中には、身体的な女性、男性の区別はつけないようにするが、シス、トランスの区別ははっきりさせる人がいる。シスはマジョリティ、トランスはマイノリティという考えなので、女性の身体を持つ女性はマジョリティの特権があるとされるし、男性の身体を持つ女性はマイノリティであるとされる。

その構図がすべて間違いとは思わないが、女性の身体を持つことのマイノリティ性は隠されてしまう。生理や妊娠について語ることがある種の特権として捉えられることにつながってしまう。そうなると、生理や妊娠があることで困難を抱えたり、弱い立場に置かれたりすることを語ることは難しくなってしまう。

生理や妊娠が特権になってしまうと、それがない人がそれについて口を出すことが悪くないことになってしまう。最近だとある企業が生理中の入浴時に使う赤いバスボムを発売して、生理中の女性の気持ちを分かっていないという意見が沢山寄せられたことがあった。

prtimes.jp


生理について語りやすくなることは良いが、生理を経験しない人が語ることにはもっと慎重になるべきと思う。バスボムについては女性も開発の場にいたようだが、もっと丁寧に複数の女性の声を聞くべきだったのではないだろうか。

私は別に赤いバスボムを生理の日用に発売することが悪いとは思えないが(それが嬉しいという人もいるかもしれないし)少しずれた商品であることは確かだとは思う。


生理のような女性の身体にまつわるものは商売になるから、フェムテックという言葉をよく聞くようになったのだろう。
ただ、女性の身体は商売の種だけではないし、商売にならないところでも声は聞かれなければならない。
そのためにも、女性の身体の持つマイノリティ性を理解されなければならない。

身体的な女性というものはあるということ、その存在はマイノリティであることを確認しなくてはならない。それを語るための言葉を手にしていなくてはならない。

まとめ

女性…特にTERFと呼ばれる私のような女性が持つ考えについて書きたいことを書いた。

女性という言葉にはジェンダーアイデンティティが女性であることも含まれるかもしれないが、身体的に女性であるという状態も指すことを忘れてはいけないと思うし、身体的に女性であるという意味を消そうとする動きに反対していかなければならない。

トランスジェンダーの人の中に、トランスジェンダーという存在があることに救われる人がいるように、身体的女性の人の中に、身体的女性という存在があることに救われる私のような人がいる。
女性の身体を持つ人がいて、その人の多くが経験することがあること、その経験があっても他の人間と同じように生きる権利があること。
その権利の一つには、性暴力に遭いやすい女性でも安全に排泄や着替えなどができるための女性用スペースがあることも含む。もちろん、トランスジェンダーの人も同じ権利を持つはずなので、折り合いをつけることは必要とは思うが、そこで身体的女性の意見が無視されるべきではないということだ。

女性差別は「全員殺してしまえ」とはならない差別だ。そうではなく、最大限利用できるように女性の尊厳を効率よく削る形で現れるのが女性差別だ。
そのために「良い女性」「悪い女性」「正しい女性」「正しくない」女性を分けていく。その基準は時代によって変わる。

昔は女性は結婚して子供を生むように圧力を掛けられていたし、家に縛られていた。

今は以前と比べれば結婚したり子供を産むことへの女性の締め付けは緩くなってはきている。
ただ、女性も男性と同じように賃金労働をすべきとされるようになった。今は年金第3号被保険者となる主婦に対する批判が強くなり、自分で年金を払える年収を稼ぐべきという意見を特にネット上ではよく見る。

子供を産み家事育児をするだけではない基準を満たさなければならない。女性が働けない(賃金労働ができない)などとは言ってはならない。女性が身体的に弱いということを主張すると女性からすら冷ややかな目を向けられる。


また、トランスジェンダー女性はマイノリティだということは「正しい」が身体的な女性がマイノリティだと言うことは「正しくない」とされる。

 

そういう風潮に私は抗いたい。
私のような思いを持つものは多くはないのかもしれない。それでも、私は私の身体、私の思考、私の言葉を持っていたい。
そんなことを最近のTERF関連の話題に触れて思った。

【ADHD啓発月間】親子で発達障害のある人が描いた漫画を読んで、そこまで批判されるような作品ではないと思ったこと

10月はADHD開発月間だけど、先日Twitterに投稿された発達障害の親子の漫画に大きな反響があった。

 

 

その批判(と呼べるものなのか疑問のあるものもあるが)の数々を見て、その批判を支持する人たちの多さを見て、私は落ち着いていられなくなった。

 

私も、作者と似ている部分があるが、診断を受けていないから私は発達障害ではないし(子供は診断されているけど)他にも違うところがあるから、同じとは言えない。
それでも私は作者を支持したいと思う。

そもそも、基本的に漫画というものは合う人と会わない人がいて、合わなかったら自分に合わなかったと思うだけで良いはずだ。
気に入らない部分や物足りない部分を指摘するのは良いと思うが、まずは漫画が伝えようとしていることを受け取るべきだろう。

 

この作品に対して、「『理解のある彼くん』が突然出てくる」という批判があったが、この漫画は「理解のある彼くん」に出会えたことを伝えたい漫画ではないことは明らかだ。
「子供を通して自分が発達障害であったことを知り、過去の自分を許せるようになった。子供の理解者になりたい」というのが伝えたいことだと思う。
まずはそのメッセージを受け取れば良いのに、枝葉末節が気になる人が多過ぎる。
作者のメッセージを素直に受け取りたくない人が多いのだろうけど、それなら黙って離れれば良いのにと思う。

こんな記事も見たけど、作者が伝えたいことと違いすぎるだろう。

anond.hatelabo.jp

多くの人が読みたい漫画というのは発達障害当事者ではない人の目線での需要がある漫画になるだろうし、当事者が伝えたいことは諦めないといけない部分も出てくる。
当事者で両方の需要を満たせる漫画が描ける人はいるだろうけど、両方の需要を満たす漫画だけじゃなくて、当事者目線を重視した漫画があっても良いと思う。

 

「理解のある彼くん」批判とは別に多かった批判が「自分が職場に迷惑を掛けたから、職場の人がキツくあたるようになったはずなのに、職場の人を悪者に描いて自分が悪かった描写が乏しい」というものがある。
私は別にそうは思わなかった。確かに、怒った表情ではあるが、モンスター化まではいっていない。包丁を突きつけたり、サービス残業を強要する、といったパワハラ行為に至っている人物が中途半端に穏やかな表情である方が不気味だし、この漫画に描かれている表情は実情に合っていると思う。
自分の落ち度も描かれている。
もっと具体的に、と言われても作者本人が具体的には分かっていない可能性も高い。何がダメなのかが分からなかったりする。
だから「嫌われる」としか書けない。「自分は嫌われるようなことをしている」ことまでは分かるが、それが具体的に何なのかは部分的にしか分からないし、分かっても直すことが難しかったりする。だから「生きているだけで…」と漠然とした自責感しか持てなかったりする。
「自分が悪かった!パワハラさせてしまった!」ともっと作者が自責している姿をエモーショナルに描けば多少はマシだったのかもしれない。作者自身が傷ついている姿は最小限に描けば良かったのかもしれない。
でも、それでは作者の描きたいことから外れてしまったのだろうし、これはこれで良いのだと思う。仕事ができなくて職場に迷惑を掛けるような人でも、パワハラを受けたら傷つくし怖いだろう。自分の問題を認識し、改善することはできなくても漠然と嫌われることは自覚して辛いという思いもあるだろう。

どんなに職場に迷惑を掛けていたとしても、パワハラを受けることは当然ではない。そこは、作者が毅然と表明しているので良いと思う。不満に思う人もいるだろうが、作者以外にも発達障害のある人でパワハラを受けて悩んでいる人はいるだろうし、そういう人が「仕事できないんだからパワハラされても仕方ない」と思わせないようにするしている作者は立派だと思う。

「生きているだけで嫌われる」と書いたその次のページで結婚していることの疑問の声も見たけど、「理解のある彼くん」が例外という認識なんだと思う。
仕事や他の人間関係だと、好かれる努力を自分でしなくてはいけなくて、それができずに嫌われていた。しかし、恋愛関係、その後の結婚生活だと、なんとなく出会って、なんとなく上手くいっていたりする。
それは棚ぼたみたいなものだと思っているから、「生きているだけで嫌われる」を否定する例ではなく、ただの例外と(無意識に)見なしたのだと思う。

いろいろ文句を言われているが、当事者目線で描かれた、それだけに突っ込みどころもあるかもしれないけど、加工し過ぎていない素直なメッセージが受け取れる、良い漫画だと私は思う。

批判が多すぎて、その中にはとても酷い言葉もあって、私は読んで疲弊してしまった。
発達障害のある人は子供を産むな」というよく見たメッセージも、また沢山作者に来ていた。
作者のふくふくさんや、ふくふくさんと同じ境遇の人たちが辛い思いをしているだろうことに胸を痛める。
(少しでも別のことに目を向けられる余裕ができていることを祈る。周りを見渡せば優しい人はいる)
こないだ、私は「~子供を産むな」というメッセージについてゴチャゴチャ考えた記事を書いたけど、やっぱりゴチャゴチャ言ってないではっきり言うことは言わないといけないと思った。
「障害がある人は、生きづらさのある人は、子供を産むな」なんてメッセージは絶対に間違っているし、すべての人に子供を産む権利があるはずだ。

 

私は診断は受けていないけど、発達障害の人が生きやすくなるための情報は私にも役立つことが多い。
最近だと、買ったこの本は参考になった。マンガとタイトルにあるけど、今回のマンガとは関係ないし著者も全く別の人だが。

 

 

(終わり)

 

 

以下はおまけで、私が言いたいことを言っているだけである。

 

 

ふくふくさんは漫画を描いているから専業主婦ではないかもしれないが、発達障害の人が専業主婦になることの批判もあった。
この漫画が批判される前には、Twitterで専業主婦を叩く発言も話題になっていた。
専業主婦叩かれすぎだ。
人がどんな人生を選んでも関係ないと思うけど、個人主義といわれる欧米でも専業主婦は蔑視の対象になると聞く。専業主婦は個人の人生の選択肢に入らないのだろうか?それはおかしいだろう。
 

発達障害の人が困っていることとかをネットで相談するような場に、発達障害の人に困らされた人の意見が書き込まれ、その人の意見の方が賛同を集めて同じような意見を持った人たちが集まったりすることがよくある。
困っている発達障害の人が意見を聞いてもらうことがそもそも難しいのだが、その中にも差がある。

ここで出すのは申し訳ないのだが、2016年、相模原障害者施設殺傷事件が起こったときに、神戸金史さんが書いた詩が話題になった。

重い障害のある息子に対してそのままでいいというメッセージのある詩で、その詩は素晴らしいし、多くの人に良い影響を与えた。私もこの詩があって良かったと当時は助けられた。
ただ、神戸さん自身は仕事で優れた結果を出し続けている方である。
もし、この詩が障害のある子供を育てている専業主婦が書いた詩だったら、ここまで受け入れられたのだろうか?と考えても無駄なことを考えてしまう。

 

「この人の意見は聞くべきだ」「この人の意見は聞かなくても良い」という差が生まれる。(それが全くない世界はありえないだろうが)

現在は「『理解のある彼くん』を得て結婚して子供を産んだ(専業主婦の)発達障害の女の意見」は「この人の意見は聞かなくても良い」という箱に入れられることがすごく多いなと思う。
何だかなと思うが、怒りも感じるが、そういう箱に入れる人たちに私の感情が振り回される必要はないなとも思う。

 

(おまけ終わり)

【読書感想文】優生思想と「産む罪」について考えた、個人的な記録

この夏、あるテーマで2冊本を読んだ。
そのテーマは完全に私のためのテーマで、一言で言うと、「障害のある人、またはそれに近い人が子供を産むことの是非」である。
もちろん、権利という観点からするとそれは議論するまでもなく「産んでも良い」となる。かつて日本では旧優生保護法による強制不妊手術が行われていた。そのような過去に戻ってはいけない。どんな人間でも子供を産み育てることができるというのは憲法13条で保障された権利だ。

しかし、親の権利よりも子供の幸せを考えるべきと言う考えが昔よりも強くなっている(その風潮自体は良いことだと思う)今、憲法を持ち出して語っても「権利はあるが、良いこととは言えない」となってしまうのではないだろうか?

実際、最近は発達障害は親から子に遺伝する可能性が高いとされるようになり、発達障害のある人やその傾向のある人が子供を持つことが(主にネット上で)非難されることがある。

発達障害のある人やその傾向のある人は働くことに困難がある場合が多く、その一部…特に女性は結婚して専業主婦になることがある。その相手のことを「理解のある彼くん」と表現したりする。
そういう女性は子供を作るな、という意見を見ることが最近多い。子供に遺伝したり、子育てに向いていない親に育てられたりして、苦労をかけることになると言われる。

それは、昔は(数年前までは)ほとんど見なかった意見だ。
なぜそう言えるのかというと、私も同じような境遇にあるからだ。発達障害の診断は受けていないが、その傾向はあると自分では思っているし、生まれた子供に障害がある。

「子供を作るな」と言われても作ってしまった(自分では「作ってしまった」という後悔はないのだが、客観的に見たら悪いことをしているようになってくるので「作ってしまった」と言わないといけない気になってくる)私はどのような心持ちで生きていったら良いのだろうか?

その答えを知りたくて、この夏は2冊の本を読んでみた。

 

 

きっかけ

今年の7月で相模原障害者施設殺傷事件(やまゆり園事件)が起こってから6年になる。

19人が死亡、26人が負傷するという、凄惨を極めた事件であるが、ニュースの一般人による感想は、ほかの大量殺人事件と比べると少し違う雰囲気になる。ほかの事件は大体「被害者は死ぬべきではなかった。加害者は許せない」という意見で一致するが、障害者を狙ったこの事件場合、その意見だけに止まらないところがある。
今年、怖いもの見たさで人の感想をいくつか読み、その趣旨が6年前と微妙に変わっているなと私は思った。統計を取ったわけではないが…

6年前はまだ「障害者は生きる価値がない」という事件の犯人である植松聖と同じような意見も結構見られた気がするが、今年はほとんど見なかった。たまたま見なかっただけかもしれないが…
代わりに、「被害者のような障害者を家族も見捨てている、面会にも来ない」という点を指摘して、「家族も世話できないのに、施設で世話仕切れるのか?」みたいなニュアンスの意見をいくつか見た。もちろん、それで「殺されても仕方ない」なんてことを堂々と書く人は見なかったが、含みの感じられる文章はあった。
私が推測する、その含みとは、「家族も世話できない、重度の障害者が施設で介助者に助けられて生きることは当たり前ではない。殺されたとしたら、産んだ者にも責任がある」というものだ。

実際そうなのかは分からない。でも、私はそう感じてしまった。
「産んだ者」として、私はどのような心持ちで生きていけば良いのか、それを知りたくなった。

そういう目的で、「優生思想」がキーワードとなっている本を2冊選び、読むこととなった。

 

1冊目

ソーシャルワーカーではない私だが、「役立たず」について考えたかったので読みたくなった。

私が特に衝撃に感じた点は、「逆淘汰」について書かれた箇所だった。
戦争で徴兵検査に合格する「優秀な」人物は兵役に服し、そのまま戦死してしまったり、そうでなくとも兵に服している間は結婚して子供を作ることができない。
しかし、徴兵検査に不合格となる「優秀ならざる種性」を持った者は、自由に結婚し、子孫を残すことができる。「優秀な」人が子供を作らず、「劣った」人が子供を残していく、ということが「逆淘汰」ということである。

また、貧困層を救済することで、本来抑制されていたはずの結婚やその先の出産が抑制されなくなる。そのせいで「不良な」人間が増えてしまう、ということも言われていたようだ。そのため産児制限の必要性が説かれていたらしい。

 

現在も、「『優秀な』人は仕事に忙殺されたり、キャリアを考えたりして結婚が遅れることがある。また、子供が育つ環境を整えてから産みたいと思案して子供を作るから何人も産めない。逆に、何も考えないような『底辺』の人の方が沢山子供を産む」ということを問題視する意見をネットで見る。
「優秀な」人と「底辺の」人とで産むことの価値が全く違うものとされている。
障害のことは関係ないところで子供はもう差別視されている。

この本を読み、私は障害のある人と密接なところにある、貧困状態にある人のことを考えた。実際、障害のある人はお金を稼ぐことが難しいことがある。
また、障害のある人、貧困状態にある人と近いところにあるのが「馬鹿な人」である。昔は知能指数が低い人は犯罪者になる確率が高いからなくすべきとされていた(なくすべきというのは殺すべきというわけではないが、「標準的な」人を増やすべきとされていた)
実際、(軽度や境界域の)知的障害者が犯罪者となる可能性は標準より高いかもしれないが、それには様々な要因があるのだろうし、そういう人がお金を稼ぐことの難しさ、というのも確実にあるだろう。

 

この本を読んで感じたのは、アメリカにおいて優生思想が盛んだったということである。優生思想といえばナチス、みたいに語られがちであるが、アメリカにあった優生思想も忘れるべきでないと思う。

こんな本も出ている。高価だが、興味ある。

 

とにかく、障害のある人と貧困状態にある人、「馬鹿な人」は密接な関係にあると私は思う。
(「馬鹿な人」というのは知能指数が低い人、知的障害のある人も含むし、そこに当てはまらないが馬鹿だと見なされている人も含む)
「障害のある人は子供を産むな」というのは差別発言になってしまうから言えない人も、「貧乏人は子供を生むな」や「馬鹿は繁殖するな」くらいなら言ってしまう可能性がある。しかし、そういう考え方は簡単に「障害のある人は子供を産むな」となる。「馬鹿な人」の存在の否定は、障害のある人の存在の否定に行き着くと私は考える。

「馬鹿な人を馬鹿にする」行為は非常に危険である。「馬鹿な人」は人格的にも劣っていると考える人を見ることがあるが、それは絶対に間違っている。
たとえば、「馬鹿な人」は想像力が乏しいので優しくすることが難しいと言われたりする。しかし、想像力がどれくらいあるかということよりも、その限られた人それぞれの想像力をどう使うかということが優しくすると言うことなのだろう。
「馬鹿な人を馬鹿にする」行為の危険性は、優生思想のことを考えるときに心に留めておくべきだ。

 

2冊目

作家の雨宮処凜氏が相模原(障害者施設殺傷)事件をテーマに対談したものを集めた本である。

どの対談も読み応えが発見が発見ががあったのだが、私のテーマに合った発見があったのは杉田俊介氏と向谷地生良氏との対談だった。

 

杉田俊介氏との対談

批評家である杉田俊介氏の話で印象に残ったのは、最近の若い人はマイノリティ的な属性を名乗ることが多いという話である。
「コミュ障」「アスペ」「ADHD」など…その理由は、「コミュニケーションが円滑にいく」ということらしい。

杉田 それが一種の防御壁になって、自分を正当化できるし、他人からも攻撃されにくくなるんだと。登山には装備が必要なように、他人とのコミュニケーションという戦場で戦うためには何かしら負の属性があるほうがよくて、そういったものが何もない、たんなるマジョリティは、一方的に責任を求められたり、自己批判を要求されたりして精神的にきつい。だから、多少の誇張を伴う自称だとしてもマイノリティ性を名乗ろうとするんだと。そういう感覚もわかるように思う反面、自縄自縛的になって、やっかいなものかもしれないと思います。

この箇所に注目したのは、「名前のついたマイノリティ」になりたいと思っていた私自身の経験からである。
私自身、コミュニケーションや働くことに悩みを持ち、雨宮氏のように以前は自分がACではないかと疑っていたし(今はそうは思わない)、ASDADHD発達障害ではないかと疑ったこともある。受診はしたが、まだ今ほど発達障害は有名ではなかったからなのか…診断されなかった。
杉田氏や雨宮氏の言うように名前のついたマイノリティ性もないのに、他人とのコミュニケーションに難があったり、「普通の人」のようにフルタイムで働けなかったりする人はただの無能、ただの敗者となってしまう。むしろ、(言い訳になる名前もなく)無配慮な対応で他人を傷つけてしまったり、職場で迷惑を掛けてしまったりして、自分が加害者であるかのように感じてしまう。
自分のことを語ることも言い訳にしかならないように感じ、語れる言葉などない感覚になる。誰かと連帯することも難しい。

しかし、名前のついたマイノリティ性のない者はただのマジョリティなのだろうか?
マジョリティの者は、自分の責任を突き詰めたり自己批判をするための言葉以外に言葉を持ってはいけないのだろうか?

杉田氏はその答えとなる可能性として「キメラ」という言葉を出す。
100パーセントマジョリティでも100パーセントマイノリティでもない、加害者でもなく被害者でもない、「キメラ」的な人間の健全な自己愛の回復の必要性を説く。
「キメラ」である自分の辛さを社会のせいにするだけではない、しかし過剰に自己否定するのではない、そのための思考、そのための言葉が必要なのだ、と杉田氏の言葉で気づかされた。

 

向谷地生良氏との対談

向谷地生良氏も、自分の言葉で語ることの大切さを説く。
精神障害を持つ人たちが暮らす浦河べてるの家では、住人と同じように支援者も自分の当事者研究をメンバーの前でするという。ケアする側とケアされる側という境目をなくしていく。

向谷地氏によると、植松氏は自分のことの語り方が分からなかった人らしい。

私が個人的に印象に残った箇所を引用する。

向谷地 植松被告は、彼の手紙の中で「やまゆり園はいい職場でした」とか、「素っ頓狂な子どもの心失者を見ると笑わせてくれます」などとも書いていたそうです。ある意味あれは、職員に対して自分は敵対していないというメッセージでもあるのかなと思うんですよ。職員を敵に回さず、私が手にかけたのは、あなた方の重荷になっている、社会の役に立たない「心失者」だけですよと。

 

雨宮 なるほど。そこで線を引いて、そこまで献身する必要はないんですよ、と。

 

向谷地 生かすべき障害者とそうでない障害者という線引きをすることで、親や介護者を味方につけるというか、対立軸をずらしているのかなと思います。一種、超越的な視点から社会のジレンマを解決してあげたという、そういうロジックを自分の中で巧みにつくっている。彼は、自分がヒトラーと同じだと言われるのは心外で、むしろ自分はリンカーンと言っているみたいですね。

 

雨宮 奴隷解放の。完全に神の目線ですね。自分が命の選別をしてあげることで、人類が楽になると

障害者についての多くの人の素朴な感情として「子供は可愛いからまだ良いけど、大人は可愛くない」「せめて『自立』してくれないと…」
「大人になっても『自立』できずに他人に世話されるにしても、せめて『コミュニケーション』がとれないと、愛されるような『可愛げ』がないと…」
というのがある。
子供ではなく、「自立」もできず、「コミュニケーション」もとれず、「可愛げ」もなく、むしろ介護者などに迷惑ばかり掛ける障害者は…細かく切り分けて、命の選別することの心理的ハードルを下げていく。

障害者の命全体を否定するような人はなかなかいないが、「良い障害者」と「悪い障害者」の線を引く人ということは当たり前にある。
私自身、子が小さい頃は「せめて言葉を喋ってくれたら…」と思うことがよくあった。
「言葉を喋る」「言葉を喋らない」の間に線があると思っていた。それは植松氏と同じではなくとも近いところにある考えだっただろう。

「内なる優生思想」という言葉がこの本には何度も出てくる。
人は誰しも「神」になるし、その視点で他人や自分を裁く。

もちろん、そのことと実際に障害者を殺した植松氏との間には明確な違いがあるのだろうが、「神」の視点でものを見たり聞いたり、また他の人が「神」視点で語っているのを聞いたりすることで、植松氏が抱いた思想に近づいてしまう可能性がある。

「神」視点のある意味分かりやすい言葉を語るよりも、すぐにスッキリとはいかないが、自分の言葉で今を生きる現実を語っていくことが大切なのかもしれない。

向谷地 (前略)彼はもしかしたら、表向き語られない社会の不確かな現実を取り込んで、ヒーローのようなつもりで”崇高な”役割に逃げ込んでいる。だとすれば、むしろ矛盾や理不尽なことが多い社会で生きている私たち自身がその現実を語り返すことで、彼も変わらざるを得なくなる。「自分は寂しかった」と一言つぶやけるようになるかもしれない。さっきお話をした青年が、私と1年半くらい毎日電話して、ようやく「俺、寂しいんだ」と語ってくれたようにね。

 

まとめ

2冊本を読んだが、私が抱いていた問いである「障害のある人、またはそれに近い人が子供を産むことの是非」への答えはなかった。

しかし、私と同じように選択したことの是非を考えてきた人が多くいることが分かった。
1冊目の本には劣った種を持つ人間が子供を持つことを問題視する国に対して、その国の考え自体を疑問視する人たちがいた。
2冊目には厳しい境遇で答えがでない中、それでも現実に生きる自分を諦めないでいようとする人たちがいた。

発達障害(の可能性がある)のに子供を産んで(子自身や第三者に)迷惑を掛けるなんて…という意見は、第一次世界大戦時のアメリカにおける「貧乏な人が子供を産む(優秀な人は徴兵されて子を残せないのに)のは損失だ」という意見に似ている。

私の悩みは珍しいものではなく、何年も前から多くの人が直面していた悩みだったのだろう。一人で抱えなくても気楽にやっていれば良いのかもしれない。

障害のある人含むすべての人が子供を産む権利は憲法で保障されているのだし、自分がした選択の是非を深刻に思い詰めなくても良いのかもしれない。いろいろなことを言われがちなのはたしかだけど…

昨日も旧優生保護法をめぐる裁判の判決が出た。

www3.nhk.or.jp

貼ったリンク先にはコメント欄がないが、ヤフーニュースなどでは旧優生保護法に賛成する意見が多数を占める。「子供をヤングケアラーにするな」など。障害者は子供を持つなという意見は根強い。でも、障害のある人が子供を持つ権利と子供が幸せに生きる権利は独立して存在するものなのだから、障害のある人の子供が幸せに生きられる社会にするにはどうすれば良いのかを考えるべきだろう。

「きっかけ」のところで書いた「家族も世話できない、重度の障害者が施設で介助者に助けられて生きることは当たり前ではない。殺されたとしたら、産んだ者にも責任がある」という言説は正しいかどうかだけど、どう考えても正しくないだろう。親と子供をセットで考えすぎている。

とはいえ、事件があったやまゆり園とは別の…しかし同じ神奈川県内の施設である中井やまゆり園にも職員による虐待の疑いが出ている。

www.asahi.com

障害者がこの社会で生きることは簡単ではない。
障害のある子供を手放すことは難しい。
虐待されても「仕方ない」「当然だ」みたいな反応も多い。


そんな状況で本を2冊読んだ程度で答えを見つけようと思った私が浅はかだったのは確かだ。

 

それでも思ったのは、他人の言葉は他人の言葉として大切だけど、自分が生きるための自分の言葉が必要だと言うことだ。
他人の言葉によって気づかされることは多い。私自身、他人の言葉が必要だから今回2冊の本を手に取った。
それでも、私が生きるための言葉は自分で探していくしかないのだと思った。

結局、私が生きられるようにしか生きられないし、今やれることをやるしかない。
そんな当たり前のことに気づかされた夏~秋だった。