【読書感想文】優生思想と「産む罪」について考えた、個人的な記録

この夏、あるテーマで2冊本を読んだ。
そのテーマは完全に私のためのテーマで、一言で言うと、「障害のある人、またはそれに近い人が子供を産むことの是非」である。
もちろん、権利という観点からするとそれは議論するまでもなく「産んでも良い」となる。かつて日本では旧優生保護法による強制不妊手術が行われていた。そのような過去に戻ってはいけない。どんな人間でも子供を産み育てることができるというのは憲法13条で保障された権利だ。

しかし、親の権利よりも子供の幸せを考えるべきと言う考えが昔よりも強くなっている(その風潮自体は良いことだと思う)今、憲法を持ち出して語っても「権利はあるが、良いこととは言えない」となってしまうのではないだろうか?

実際、最近は発達障害は親から子に遺伝する可能性が高いとされるようになり、発達障害のある人やその傾向のある人が子供を持つことが(主にネット上で)非難されることがある。

発達障害のある人やその傾向のある人は働くことに困難がある場合が多く、その一部…特に女性は結婚して専業主婦になることがある。その相手のことを「理解のある彼くん」と表現したりする。
そういう女性は子供を作るな、という意見を見ることが最近多い。子供に遺伝したり、子育てに向いていない親に育てられたりして、苦労をかけることになると言われる。

それは、昔は(数年前までは)ほとんど見なかった意見だ。
なぜそう言えるのかというと、私も同じような境遇にあるからだ。発達障害の診断は受けていないが、その傾向はあると自分では思っているし、生まれた子供に障害がある。

「子供を作るな」と言われても作ってしまった(自分では「作ってしまった」という後悔はないのだが、客観的に見たら悪いことをしているようになってくるので「作ってしまった」と言わないといけない気になってくる)私はどのような心持ちで生きていったら良いのだろうか?

その答えを知りたくて、この夏は2冊の本を読んでみた。

 

 

きっかけ

今年の7月で相模原障害者施設殺傷事件(やまゆり園事件)が起こってから6年になる。

19人が死亡、26人が負傷するという、凄惨を極めた事件であるが、ニュースの一般人による感想は、ほかの大量殺人事件と比べると少し違う雰囲気になる。ほかの事件は大体「被害者は死ぬべきではなかった。加害者は許せない」という意見で一致するが、障害者を狙ったこの事件場合、その意見だけに止まらないところがある。
今年、怖いもの見たさで人の感想をいくつか読み、その趣旨が6年前と微妙に変わっているなと私は思った。統計を取ったわけではないが…

6年前はまだ「障害者は生きる価値がない」という事件の犯人である植松聖と同じような意見も結構見られた気がするが、今年はほとんど見なかった。たまたま見なかっただけかもしれないが…
代わりに、「被害者のような障害者を家族も見捨てている、面会にも来ない」という点を指摘して、「家族も世話できないのに、施設で世話仕切れるのか?」みたいなニュアンスの意見をいくつか見た。もちろん、それで「殺されても仕方ない」なんてことを堂々と書く人は見なかったが、含みの感じられる文章はあった。
私が推測する、その含みとは、「家族も世話できない、重度の障害者が施設で介助者に助けられて生きることは当たり前ではない。殺されたとしたら、産んだ者にも責任がある」というものだ。

実際そうなのかは分からない。でも、私はそう感じてしまった。
「産んだ者」として、私はどのような心持ちで生きていけば良いのか、それを知りたくなった。

そういう目的で、「優生思想」がキーワードとなっている本を2冊選び、読むこととなった。

 

1冊目

ソーシャルワーカーではない私だが、「役立たず」について考えたかったので読みたくなった。

私が特に衝撃に感じた点は、「逆淘汰」について書かれた箇所だった。
戦争で徴兵検査に合格する「優秀な」人物は兵役に服し、そのまま戦死してしまったり、そうでなくとも兵に服している間は結婚して子供を作ることができない。
しかし、徴兵検査に不合格となる「優秀ならざる種性」を持った者は、自由に結婚し、子孫を残すことができる。「優秀な」人が子供を作らず、「劣った」人が子供を残していく、ということが「逆淘汰」ということである。

また、貧困層を救済することで、本来抑制されていたはずの結婚やその先の出産が抑制されなくなる。そのせいで「不良な」人間が増えてしまう、ということも言われていたようだ。そのため産児制限の必要性が説かれていたらしい。

 

現在も、「『優秀な』人は仕事に忙殺されたり、キャリアを考えたりして結婚が遅れることがある。また、子供が育つ環境を整えてから産みたいと思案して子供を作るから何人も産めない。逆に、何も考えないような『底辺』の人の方が沢山子供を産む」ということを問題視する意見をネットで見る。
「優秀な」人と「底辺の」人とで産むことの価値が全く違うものとされている。
障害のことは関係ないところで子供はもう差別視されている。

この本を読み、私は障害のある人と密接なところにある、貧困状態にある人のことを考えた。実際、障害のある人はお金を稼ぐことが難しいことがある。
また、障害のある人、貧困状態にある人と近いところにあるのが「馬鹿な人」である。昔は知能指数が低い人は犯罪者になる確率が高いからなくすべきとされていた(なくすべきというのは殺すべきというわけではないが、「標準的な」人を増やすべきとされていた)
実際、(軽度や境界域の)知的障害者が犯罪者となる可能性は標準より高いかもしれないが、それには様々な要因があるのだろうし、そういう人がお金を稼ぐことの難しさ、というのも確実にあるだろう。

 

この本を読んで感じたのは、アメリカにおいて優生思想が盛んだったということである。優生思想といえばナチス、みたいに語られがちであるが、アメリカにあった優生思想も忘れるべきでないと思う。

こんな本も出ている。高価だが、興味ある。

 

とにかく、障害のある人と貧困状態にある人、「馬鹿な人」は密接な関係にあると私は思う。
(「馬鹿な人」というのは知能指数が低い人、知的障害のある人も含むし、そこに当てはまらないが馬鹿だと見なされている人も含む)
「障害のある人は子供を産むな」というのは差別発言になってしまうから言えない人も、「貧乏人は子供を生むな」や「馬鹿は繁殖するな」くらいなら言ってしまう可能性がある。しかし、そういう考え方は簡単に「障害のある人は子供を産むな」となる。「馬鹿な人」の存在の否定は、障害のある人の存在の否定に行き着くと私は考える。

「馬鹿な人を馬鹿にする」行為は非常に危険である。「馬鹿な人」は人格的にも劣っていると考える人を見ることがあるが、それは絶対に間違っている。
たとえば、「馬鹿な人」は想像力が乏しいので優しくすることが難しいと言われたりする。しかし、想像力がどれくらいあるかということよりも、その限られた人それぞれの想像力をどう使うかということが優しくすると言うことなのだろう。
「馬鹿な人を馬鹿にする」行為の危険性は、優生思想のことを考えるときに心に留めておくべきだ。

 

2冊目

作家の雨宮処凜氏が相模原(障害者施設殺傷)事件をテーマに対談したものを集めた本である。

どの対談も読み応えが発見が発見ががあったのだが、私のテーマに合った発見があったのは杉田俊介氏と向谷地生良氏との対談だった。

 

杉田俊介氏との対談

批評家である杉田俊介氏の話で印象に残ったのは、最近の若い人はマイノリティ的な属性を名乗ることが多いという話である。
「コミュ障」「アスペ」「ADHD」など…その理由は、「コミュニケーションが円滑にいく」ということらしい。

杉田 それが一種の防御壁になって、自分を正当化できるし、他人からも攻撃されにくくなるんだと。登山には装備が必要なように、他人とのコミュニケーションという戦場で戦うためには何かしら負の属性があるほうがよくて、そういったものが何もない、たんなるマジョリティは、一方的に責任を求められたり、自己批判を要求されたりして精神的にきつい。だから、多少の誇張を伴う自称だとしてもマイノリティ性を名乗ろうとするんだと。そういう感覚もわかるように思う反面、自縄自縛的になって、やっかいなものかもしれないと思います。

この箇所に注目したのは、「名前のついたマイノリティ」になりたいと思っていた私自身の経験からである。
私自身、コミュニケーションや働くことに悩みを持ち、雨宮氏のように以前は自分がACではないかと疑っていたし(今はそうは思わない)、ASDADHD発達障害ではないかと疑ったこともある。受診はしたが、まだ今ほど発達障害は有名ではなかったからなのか…診断されなかった。
杉田氏や雨宮氏の言うように名前のついたマイノリティ性もないのに、他人とのコミュニケーションに難があったり、「普通の人」のようにフルタイムで働けなかったりする人はただの無能、ただの敗者となってしまう。むしろ、(言い訳になる名前もなく)無配慮な対応で他人を傷つけてしまったり、職場で迷惑を掛けてしまったりして、自分が加害者であるかのように感じてしまう。
自分のことを語ることも言い訳にしかならないように感じ、語れる言葉などない感覚になる。誰かと連帯することも難しい。

しかし、名前のついたマイノリティ性のない者はただのマジョリティなのだろうか?
マジョリティの者は、自分の責任を突き詰めたり自己批判をするための言葉以外に言葉を持ってはいけないのだろうか?

杉田氏はその答えとなる可能性として「キメラ」という言葉を出す。
100パーセントマジョリティでも100パーセントマイノリティでもない、加害者でもなく被害者でもない、「キメラ」的な人間の健全な自己愛の回復の必要性を説く。
「キメラ」である自分の辛さを社会のせいにするだけではない、しかし過剰に自己否定するのではない、そのための思考、そのための言葉が必要なのだ、と杉田氏の言葉で気づかされた。

 

向谷地生良氏との対談

向谷地生良氏も、自分の言葉で語ることの大切さを説く。
精神障害を持つ人たちが暮らす浦河べてるの家では、住人と同じように支援者も自分の当事者研究をメンバーの前でするという。ケアする側とケアされる側という境目をなくしていく。

向谷地氏によると、植松氏は自分のことの語り方が分からなかった人らしい。

私が個人的に印象に残った箇所を引用する。

向谷地 植松被告は、彼の手紙の中で「やまゆり園はいい職場でした」とか、「素っ頓狂な子どもの心失者を見ると笑わせてくれます」などとも書いていたそうです。ある意味あれは、職員に対して自分は敵対していないというメッセージでもあるのかなと思うんですよ。職員を敵に回さず、私が手にかけたのは、あなた方の重荷になっている、社会の役に立たない「心失者」だけですよと。

 

雨宮 なるほど。そこで線を引いて、そこまで献身する必要はないんですよ、と。

 

向谷地 生かすべき障害者とそうでない障害者という線引きをすることで、親や介護者を味方につけるというか、対立軸をずらしているのかなと思います。一種、超越的な視点から社会のジレンマを解決してあげたという、そういうロジックを自分の中で巧みにつくっている。彼は、自分がヒトラーと同じだと言われるのは心外で、むしろ自分はリンカーンと言っているみたいですね。

 

雨宮 奴隷解放の。完全に神の目線ですね。自分が命の選別をしてあげることで、人類が楽になると

障害者についての多くの人の素朴な感情として「子供は可愛いからまだ良いけど、大人は可愛くない」「せめて『自立』してくれないと…」
「大人になっても『自立』できずに他人に世話されるにしても、せめて『コミュニケーション』がとれないと、愛されるような『可愛げ』がないと…」
というのがある。
子供ではなく、「自立」もできず、「コミュニケーション」もとれず、「可愛げ」もなく、むしろ介護者などに迷惑ばかり掛ける障害者は…細かく切り分けて、命の選別することの心理的ハードルを下げていく。

障害者の命全体を否定するような人はなかなかいないが、「良い障害者」と「悪い障害者」の線を引く人ということは当たり前にある。
私自身、子が小さい頃は「せめて言葉を喋ってくれたら…」と思うことがよくあった。
「言葉を喋る」「言葉を喋らない」の間に線があると思っていた。それは植松氏と同じではなくとも近いところにある考えだっただろう。

「内なる優生思想」という言葉がこの本には何度も出てくる。
人は誰しも「神」になるし、その視点で他人や自分を裁く。

もちろん、そのことと実際に障害者を殺した植松氏との間には明確な違いがあるのだろうが、「神」の視点でものを見たり聞いたり、また他の人が「神」視点で語っているのを聞いたりすることで、植松氏が抱いた思想に近づいてしまう可能性がある。

「神」視点のある意味分かりやすい言葉を語るよりも、すぐにスッキリとはいかないが、自分の言葉で今を生きる現実を語っていくことが大切なのかもしれない。

向谷地 (前略)彼はもしかしたら、表向き語られない社会の不確かな現実を取り込んで、ヒーローのようなつもりで”崇高な”役割に逃げ込んでいる。だとすれば、むしろ矛盾や理不尽なことが多い社会で生きている私たち自身がその現実を語り返すことで、彼も変わらざるを得なくなる。「自分は寂しかった」と一言つぶやけるようになるかもしれない。さっきお話をした青年が、私と1年半くらい毎日電話して、ようやく「俺、寂しいんだ」と語ってくれたようにね。

 

まとめ

2冊本を読んだが、私が抱いていた問いである「障害のある人、またはそれに近い人が子供を産むことの是非」への答えはなかった。

しかし、私と同じように選択したことの是非を考えてきた人が多くいることが分かった。
1冊目の本には劣った種を持つ人間が子供を持つことを問題視する国に対して、その国の考え自体を疑問視する人たちがいた。
2冊目には厳しい境遇で答えがでない中、それでも現実に生きる自分を諦めないでいようとする人たちがいた。

発達障害(の可能性がある)のに子供を産んで(子自身や第三者に)迷惑を掛けるなんて…という意見は、第一次世界大戦時のアメリカにおける「貧乏な人が子供を産む(優秀な人は徴兵されて子を残せないのに)のは損失だ」という意見に似ている。

私の悩みは珍しいものではなく、何年も前から多くの人が直面していた悩みだったのだろう。一人で抱えなくても気楽にやっていれば良いのかもしれない。

障害のある人含むすべての人が子供を産む権利は憲法で保障されているのだし、自分がした選択の是非を深刻に思い詰めなくても良いのかもしれない。いろいろなことを言われがちなのはたしかだけど…

昨日も旧優生保護法をめぐる裁判の判決が出た。

www3.nhk.or.jp

貼ったリンク先にはコメント欄がないが、ヤフーニュースなどでは旧優生保護法に賛成する意見が多数を占める。「子供をヤングケアラーにするな」など。障害者は子供を持つなという意見は根強い。でも、障害のある人が子供を持つ権利と子供が幸せに生きる権利は独立して存在するものなのだから、障害のある人の子供が幸せに生きられる社会にするにはどうすれば良いのかを考えるべきだろう。

「きっかけ」のところで書いた「家族も世話できない、重度の障害者が施設で介助者に助けられて生きることは当たり前ではない。殺されたとしたら、産んだ者にも責任がある」という言説は正しいかどうかだけど、どう考えても正しくないだろう。親と子供をセットで考えすぎている。

とはいえ、事件があったやまゆり園とは別の…しかし同じ神奈川県内の施設である中井やまゆり園にも職員による虐待の疑いが出ている。

www.asahi.com

障害者がこの社会で生きることは簡単ではない。
障害のある子供を手放すことは難しい。
虐待されても「仕方ない」「当然だ」みたいな反応も多い。


そんな状況で本を2冊読んだ程度で答えを見つけようと思った私が浅はかだったのは確かだ。

 

それでも思ったのは、他人の言葉は他人の言葉として大切だけど、自分が生きるための自分の言葉が必要だと言うことだ。
他人の言葉によって気づかされることは多い。私自身、他人の言葉が必要だから今回2冊の本を手に取った。
それでも、私が生きるための言葉は自分で探していくしかないのだと思った。

結局、私が生きられるようにしか生きられないし、今やれることをやるしかない。
そんな当たり前のことに気づかされた夏~秋だった。