『対抗言論 vol.3』に載っている笙野頼子『発禁小説集』の批評はメケシ(女消し)だ

1月に発行された雑誌『対抗言論 vol.3』に批評家の杉田俊介氏が「トランスジェンダー/フェミニズム/メンズリブ 笙野頼子『発禁小説集』に寄せて」という批評文を載せている。

 

 
杉田氏が笙野頼子氏に批判的な立場であることは分かっていたが、購入して読んでいることにした。
 
わざわざお金を出して好きな作家が批判されるのを見るのは基本やらないこと(『文藝』は図書館で借りた)だが、私は以前雨宮処凜氏が杉田氏と対談しているのを読んで、惹かれるものがあったのを思い出した。

 

相模原障害者施設殺傷事件についての対談だったのだが、弱者男性としての自分や他者の割り切れなさを見つめ、慎重な議論をしようとする人だと思った。
そんな杉田氏が笙野頼子氏についてどういうことを書いているのだろうと思った。
 
結論を言うと、私が期待していた内容はそこにはなかった。
笙野氏の言葉をそのままでは受け取ってはいけないという信念、曲解した形で受け取って自分の主張で打ち消そうという意思を感じた文章だった。
 
それは「トランス差別」に反対する者であるためには必要なことなのかもしれない。笙野氏のような「トランス差別者」の言葉をまともに聞くことは「トランス差別」に抗う者としてはあってはならないことなのかもしれない。
しかし、私は杉田氏のそういう態度を、笙野氏の言うメケシ(女消し)そのものだと感じた。
 
今回私は杉田氏が笙野氏の言葉をどのように無効化し「トランス差別」に対抗しているか、それによってどのように「女性」を消しているのかを見ていきたい。
 
 
 
 
 
 

1⃣トランスジェンダーの当事者の声は聞こうとするが、TERFと呼ばれる女性たちの声は聞こうとはしない

 
冒頭で杉田氏は笙野氏の「ご主張」について紹介する。
しかし、杉田氏は笙野氏の言葉をそのまま受け取ることはない。
 
杉田氏は笙野氏が自ら考えて発表した主張としてではなく、「道徳的・宗教的な保守派たちが一部のフェミニストと結託した国際的な反ジェンダー運動の中に組み込まれた人間」の主張としてそれを受け取る。
笙野氏は利用された被害者であると見なすことで、一人で物事を考えることのできない無力な存在として見る。その発言をまともに受け取らない。
 
それは「トランス差別」に反対する者なら皆が取るべき態度なのだろう。
 
杉田氏はトランスジェンダーの当事者の言葉を聞こうとショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』などを紹介しているが、女性、特にTERFと呼ばれる女性たちの言葉は聞こうとは決してしない。
トランスジェンダー女性と他の女性とでは人数や認知度や「当事者のパワー」が違うと杉田氏は言うが、その非対称性があったとしても、声を聞かない理由にはならない。
 
笙野氏のようなTERFと呼ばれる女性は、一方では宗教右派、カルト宗教団体などの勢力に取り込まれデマに踊らされる無力な存在とされ、一方では圧倒的に人数や権力がある強者であると見なされる。
声を聞かないための理由が作られる。
「女vsトランスジェンダー」という対立はないことにされる。
「トランス差別」に反対するために、そんな対立はないと言わなければならないのだろう。だから、声を聞かない理由を作る。
 
 
 

2⃣(トランス女性を女性以外とする考えを許さないために)身体的な男性と女性の違いを認めない

 
杉田氏は笙野氏の言葉に耳を全く傾けない訳ではない。
笙野氏が「男」を恐怖し、遠ざけようとすることにたいしてはある程度共感を示しているし、それを前提に「男」である自分がどういう態度を取るべきか考えてもいる。
フェミニズムは「女」のためのものと言うし、「男性抹殺願望」を内在させるべきとも言う。
 
しかし、そこで扱われる「男」は「シス男性」のことである。「トランスの人々」は「男」ではないとされる。はっきりとは言われていないが「『女』たちの男性抹殺願望はトランスの人々に対してではなく『男』たちの方へと『正しく』向けられるべきではないか、という介入を行うこと」(p376)といった文章からそれが読み取れる。
 
杉田氏は身体的性別(生物学的性別)を取りあげない。杉田氏は身体的な性別について無頓着なところがある。
たとえば、海老原暁子氏の著書『なぜ男は笙野頼子を畏れるのか』を取り上げた箇所がある。
 
「男性陣は『戦う美少女』がお好きなようだ。(略)反対に、本気で戦うデブでブスでしつこくて目つきの悪い短髪のおばはんを男は嫌い、恐れる。(略)生涯性交しないと宣言し、精神的にも経済的にも男に依存しないおっかないおばはん。あー溜飲が下がる。すっきりする。笙野頼子の気持ちの良さは女にしか分からない」
この海老原氏の文に対して杉田氏は「『あー溜飲が下がる。すっきりする。笙野頼子の気持ちの良さは女にしか分からない』という共感の挨拶が、どこか去勢と射精のホモソーシャリティを感じさせるのも、何重にも捻くれている」とコメントしている。
 
男性(射精をする身体を持つ性)が語る言葉を独占し続けていた歴史があり、女性たちは長らく自らを語る言葉を奪われてきた。
今は言葉を取り戻す戦いの中に女性は生きている(と私は信じている)。そんな女性の一人である海老原氏が笙野氏という存在に出会った喜びを語っている箇所にたいして、杉田氏は「射精」という言葉を使う。
そこに私は男が無神経に女性の言葉を奪う現場を見る。
もちろん女性が自分のこととして「射精」という言葉を使うことはある。たとえば性的な気分が極まったときに「射精する」と実際には射精していなくても(できなくても)言ったりすることはある。
しかし、女性があえて自分のこととして「射精」を使うことと、男性が別の言葉を使っている女性に対して勝手に「射精」の言葉を当てることは違う。
女性が女性のやり方で言葉を得て他の女性と繋がろうとしているときに男性目線で言葉を掛けることは乱暴だ。
 
私はそこに男の傲慢さを見るが、身体的性別を認めないことが「トランス差別」に反対することであるなら、それは正しい態度なのかもしれない。
 
身体的性別は重要視してはいけないというルールを守ることで必然的に性自認の価値が高くなる。
トランス女性は女性で、トランス男性は男性としか言えなくなる。
シス女性とトランス女性のマジョリティ/マイノリティ性は強調されるが、身体的女性と身体的男性のマジョリティ/マイノリティ性は話題にならないし、なってはいけないとされる。
 
杉田氏は笙野氏やフェミニスト女性たちの立場のことも考えているように見えるが、「トランス差別」に反対する立場に立つためのルールを忠実に守っている。
だから女性の立場の立つといっても、あくまでそこにはトランス女性が含まれているし、含まれないことを許さない。身体的な違いを話題にすることは避けられる。
身体的女性の立場には立たないし、そもそもその存在を否定している。
 
 

3️⃣未来的な予想を基に、今の現実を生きる女性を無視する

 
杉田氏はショーン・フェイ氏やパトリック・カリフィア氏の言葉を引いて、将来的には「男性」や「女性」という概念はなくなるまたは今のままの意味での「女性」「男性」ではなくなると解放的な将来を夢見ている。
カリフィア氏の言葉を2回引用し、2回目は最後の結びとして引用するくらいに入れ込んでいる。
 
「もしわたしたちが本当に自由を求めるなら、この闘いの果てに女性はもう女性ではなくなる、ということを理解しなければならない。あるいは少なくとも、今日わたしたちがその言葉を理解している意味では、女性でなくなるだろう。男性もまたパラダイムとして、無傷で残ることはない。それでもわたしたちは男性以上ではないにせよ、少なくとも男性と同じ程度には変わらなければならない」
 
杉田氏は未来の理想を思い描いて、今の男性と女性が持つ差から目を逸らす。
弱者男性として、杉田氏は男性学的な生とトランスジェンダー的な生を「違和」によって接合しようという藤高和輝氏の「違和連続体」という概念にも惹かれている。
「違和連続体」の概念によって杉田氏のような男性は生きやすくなるかもしれないが、グラデーションであることを強調することでいまある男性と女性の差を曖昧にしている。
 
女性であることで起きる困難や女性ではない人との違いについてはうやむやになってしまう。
線引きをしないことが正しく、望ましいとされる。
 
性別はグラデーションである部分もあるだろうが、線を引くからこそ自分が何者であるかを理解しやすくなったり、自分の困難を他者の共有し助けを求めやすくなる女性がいるかもしれないのに、線引きが悪いことであるかのように思わされてしまう。
引用のカリフィア氏の言葉は、女性は女性のままでは解放されないということだ。
自分の今のあり方を否定しなければ、今の自分ではないものにならなければ解放されない女性というものは何なのだろう?
差別されている属性には様々あるが、女性のように自分が受けている差別を解消するために自分の在り方を変えるように言われる属性はあるだろうか?
 
女性が女性のままであることが認められないことで、女性は主体性を奪われる。
女性用スペースに関してもそうで杉田氏ははっきりと、トランスの人が「プレデター」である可能性を認めながら、女性は必ず受け入れなければいけないと言う。
 
トランス的な他者がプレデターである「かもしれない」という可能性。その可能性を見つめつつ、しかし決してあるスペースからトランスの人々の存在を排除しないこと。どんなに居心地の悪さを感じたとしても、恐怖を感じても、それをヘイトにせず、差別の理由にしないこと。
またこうも言っている。
それだけではない。ここは絶対に認めねばならない。他者とは根源的に――これもまたもはやトランスの人々に限られないことを強調したい――なりすます他者、騙す他者でもありるのだ。
 
女性(もともと女性トイレを使う権利があるとされてきた人々)とトランスの人、その他の人々の境目をなくしてしまい、もっともらしい理屈で女性の拒否権を奪う。
「シス女性も性犯罪を犯すことはある」と言われることがあるが、実際「シス女性」とその他の人々(男性と分類される人々)の間の性犯罪者の人数には大きな差がある。
 
女性は性犯罪の被害を身近に感じ、自衛しなければならないというプレッシャーの中で生き、「恐怖」を感じながら「恐怖」を自衛に利用して生活してきた。
 
その「恐怖」に対して杉田氏は冷淡だ。
それでも未来的には女性と男性の境目はなくなり「違和連続体」の中に溶け込んでしまうのだから、それが解放なのだから、杉田氏が女性に冷淡だろうが問題はないということなのだろう。
またシス女性の側には決して立たず、トランス女性(「プレデター」である人も含む)の味方に全面的に立っているから杉田氏の言葉は「トランス差別」に反対する者としては妥当なものとなる。
 
 
 

4️⃣まとめ

 
杉田俊介氏の批評は、笙野頼子氏の言葉を悉く打ち消し、「トランス差別」に反対するための型に収まったものだった。
宗教右派」の「デマ」だからまともに聞く必要がないと断定する。
身体的性別を否定することにより、トランス女性は男性ではなく女性となり、女性の中でもマイノリティの女性となる。
さらに性別をグラデーション/スペクトラムとすることで男性と女性の境目をなくしてしまう。
 
杉田氏の言うとおり、遠い未来では男性と女性の境目はなくなり解放されるのかもしれない。
何らかの技術で生理や出産を女性は経験することはなくなるかもしれないしスポーツなどで男性との肉体的な力の差を感じることもなくなるのかもしれない。
 
しかし、今現実の世界を生きる女性、特に出生時から女性の身体とされる身体を生きてきた女性にとって、身体的性別の否定や性別の違いの曖昧化は、自らの困難を見つめることや語ることを否定する。
杉田氏がしているような言葉や型を用いて「トランス差別」をしないように自分の身体や自分が使うスペースについて語らなければならないのなら、女性は自分が自分らしく生きるように考えたり選択したりすることも難しくなってしまう。
ある意味もう「女消し」は始まってしまっていると言える。
 
 
笙野頼子氏が「女消し」という言葉を使用したことで、今現在日本や海外で起きている状況を的確に表せるようになった。
 
杉田俊介氏が聞こうとしない、歪めて受け取ることが「トランス差別」に反対する者としての振る舞いとされている笙野頼子氏の言葉は、今現在生きる女性たちにとって必要な言葉だ。
 

6日には笙野頼子氏の新刊が出る。