女性の権利、女性の声を守るため、性別変更の手術要件撤廃に反対します

現在、日本で戸籍の性別を変更するには性別適合手術が必要である。

それが憲法に違反しているかどうかを争う家事審判において、9月27日に最高裁大法廷が当事者の意見を聞く弁論が開かれた。

www3.nhk.or.jp

 

手術要件はトランスジェンダーに対する人権侵害であると考える当事者や支援者は多くいる。

 

対して、櫻井よしこ自民党の議員などのメンバーで構成された、「全ての女性の安心・安全と女子スポーツの公平性等を守る議員連盟」(通称:女性を守る議連)は手術要件が違憲となることに懸念を表明している。

 

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先日は、一般市民である女性たちが手術要件撤廃に反対するデモを開催した。

www.sankei.com

私も今の日本で性別変更の手術要件が撤廃されることには反対の立場だ。

「女性の権利の軽視、権利について語ることの制限」が社会において広がってしまうことの懸念があるから、私は反対する。

 

 

 

メディアによる「女性の権利について語ることの制限」について

トランスジェンダーをどのように扱うのかは媒体によって違う。
一部の媒体では、「トランスジェンダーの女性を女性として含めるべき。それに反する意見を持つ者は発言すべきではない」という姿勢を徹底しているように見える。
例えば、朝日新聞ではトランスジェンダーの権利を主張する人たちを定期的に取りあげているが、(最近では9月23日の「ひと」欄の高井ゆと里)そこに疑問を感じている人を取りあげることはしない。
ただ、国際面では比較的中立に取りあげている。2023年7月11日(トランスジェンダーのトイレ利用を巡る訴訟)や4月8日(トランスジェンダー生徒のスポーツ参加)の記事において、アメリカの賛成派と反対派それぞれの立場を取りあげている。

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国際面では双方の意見を取りあげているのに、国内では片方の意見しか取りあげない。聞かれない声があることを放置するだけでなく、同じ立場の人の声ばかりを取り上げて「再教育」しようとする朝日新聞の姿勢は不誠実と言える。

 

文芸誌でも、『群像』に掲載された笙野頼子の作品が単行本化されないということがあった。
週刊読書人2023年8月18日号の田中秀臣栗原裕一郎の対談でそのことが取りあげられたが、後に水上文による反論が9月8日号に載った。

[3502]2023年8月18日号 データ版jinnet.dokushojin.com

 

[3505]2023年9月8日号 データ版jinnet.dokushojin.com

 

笙野頼子講談社から出せなかった作品を『笙野頼子 発禁小説集』として鳥影社から出している。

水上文はそのことをもって、笙野頼子は「発禁」されていない、つまりキャンセルされていないと言うが、掲載誌の出版社から出せなかったという異常事態が起こったことを軽視しすぎている。
笙野頼子という一人の女性作家の声が消されようとした痛み、その声に勇気づけられてきた者たち…特に女性たちの痛みというものを無視している。

トランスジェンダーの権利を求める人たちの声のみを取りあげて、そうではない声…女性の声を無視すること。
それによって、女性は自分が女性であると言うことをどう捉え、生きていくかということについて抑圧され、わきまえさせられてしまう。

 

女性が女性の身体を持って生まれ、そう見なされ生きてきたことの軽視について

周司あきら・高井ゆと里による本『トランスジェンダー入門』によると、トランスジェンダーは「女性・男性として生きること」が難しかった人々とされる。

その中には「これからは男性・女性として生きよう」と性別移行を行う人がいて、さらに生まれたときの身体的特徴を手術やホルモン投与で変えようとする人もいる。

著者によると、そういう後天的に身体的特徴を変えることで(手術要件を満たさなくても)身体的にも性別が移行できているじゃないか、いわゆる「シスジェンダー」と身体的にも変わらないじゃないか、と言っている。

つまり、著者の主張は、女性であること/男性であることに重要なのは「女性/男性として生きようとしていること・生きているように見えること」であって、生まれたときに医師に女性/男性と判別されたことや、そう見なされる外性器などの身体的特徴を備えていたことは大して重要ではない、ということだ。

しかし、実際にそうなのであろうか?

生まれたときに女性らしい身体的特徴を持つことで、男性とは違った経験を幼少時からすることになる。
周りの目も男性に対するものとは違ったものとなる。

「女性ならこれくらいしろ」
「女性はこれはしなくても良い」
といったことの内容が男性とは違ったりする。
そのことによって、女性は男性に比べて将来の可能性が変わってしまったりするし、自立が阻まれてしまったりもする。

もちろん、女性の身体の特徴である生理や妊娠といったものに振り回される女性も多い。振り回されるというと被害者意識が強いようだが、生理や妊娠というものにどう付き合っていくかと言うことが大部分の女性に取っては重大なテーマにならざるを得ない現状がある。

さらに、最近は医学が男性中心になっていたという批判がある。
女性のデータを取ることをせず、不適切な対応で女性に不利な医療の状況になっているという指摘がある。
例えば、心筋梗塞は男性の方が発見されやすいという報告がある。もちろん、ここでいう男性や女性はジェンダーアイデンティティではなく身体的な性別である。

mainichi.jp

しかし、トランスジェンダー女性の声だけを聞き、それに対する身体女性の声は重要ではないと切り捨てることで、こういった身体的特徴に関する問題や、その特徴を有する者に対する期待や抑圧に関する問題は、女性の問題ではなくなり、重要視されなくなってしまう。

たとえば、大学の女性採用枠にトランス女性が採用される例がある。
女性が身体的に仕事に向いていない特徴があること、またそういうカテゴリーに属する者として出生時から見なされ扱われていたことが、トランス女性を採用することによって軽視されている。

Twitter(X)で元男子校の生徒だったトランス女性が女性枠で採用されたという投稿を見たことがあるが、男子校で男子生徒として見なされ一時的にでも生きられたことは、身体女性にはできない特権である。
しかし、そういったことは考慮されないし、女性がそういう声を上げることも差別と言われかねない状況がある。

手術要件がある今でさえ、トランスジェンダーの(女性の身体を軽視する)意見に差別者扱いされずに反対することは難しい場合がある。
手術要件があることで身体的にも一定程度の移行することが戸籍の性別変更の条件になっているが、身体的に移行する性別に合わせる必要がない(出生時のままの身体で男性/女性になれる)ということになれば、身体的な特徴やそれに付随するものはさらに軽視されてしまうだろう。

 

女性の言葉が制限され、それによって現実が制限される危機について

手術要件撤廃について、女性である私が危機感を感じているのは、この日本という国ではまだまだ女性差別が残っているからだ。
差別があり、女性の言葉が軽視されているがために、今ですら女性が自分のことを話すための言葉は不十分である。
なぜ軽視されているかという理由について、男性とは違う女性の身体を持って生まれてきたこと、その身体を持つ者として生きてきたことは重要な要素だ。
もし男性と女性が全く同じ身体で生まれてきていれば、女性の扱いは今とは違ったものになっていただろう。

しかし、手術要件がなくなることによって、男性と同じ身体を持つ戸籍女性が存在することになり、女性の身体については考慮しなくても良いこととになる可能性がある。

「女性」という言葉が今までは基本的に「身体が女性の人」という意味で通っていたのが、それでは差別となってしまう。


J.K.ローリングが「生理のある人」という言葉を「女性じゃないの?」というような言葉で疑問を投げたときに大きな批判を浴びたように、女性の身体に関する言葉は女性に属する者ではなくなり、症状(生理・PMS・更年期症状)や内臓(子宮・卵巣)、人体のパーツ(乳房・膣)、行動(出産・授乳)といったようにバラバラに捉えて、語らないといけなくなる。

女性が自分の身の回りの差別を考えたり、訴えたりするときに、そういう言葉の制約が障害となってしまう可能性がある。
つまり、女性は常に自分とは身体が違う「女性」がいることを念頭に動かないといけなくなる。自分であることと女性であることとが重ならない部分が多く生じてしまう。
うっかりすると「差別」と言われてしまう中、わきまえて話すことが求められてしまう。

そうして、わきまえることの徹底が行われ、そうでない女性が「キャンセル」されてメディアで取りあげられなくなったり、「教育」されたりするようになった後に、女性は問題に直面する。
それはトイレや更衣室などの女性スペースの問題であり、スポーツや女性採用枠の問題であり、その他の問題である。しかし、トランスジェンダー女性を女性として扱うことは「正しい」ことだから、それを問題とすることは認められなくなっているだろう。

手術要件の撤廃を訴える人の中には、撤廃しても女性スペースの運用については変わらないと言う人がいる。
しかし、確実に社会は変わってしまうだろう。まずは言葉の意味が変えられてしまい、その使い方が制限され、それによって問題を問題として捉えることができなくなる。
その後で、現実のいろいろな問題が生じても、反対することが難しくなってしまうかもしれない。

女性にとって取り返しのつかないことになる可能性がある。まずは変えてみよう、ではなく慎重な姿勢が求められる。

 

「女性の安全を守る議連」などの反対派について

手術要件の反対派として知名度があるのは、「女性の安全を守る議連」だろう。

LGBT理解増進法の成立とともに、それが女性の安全などに影響が及ばないような取り組みをしている議員連盟だ。

賛成派または無関心な議員がほとんどである中、女性にとってはこの議連の働きが頼りになる。

 

ただ、自民党議員の中でも保守的な思想を持つ人が多く(それ自体は問題ではないと私は思う)、「人権」と言った言葉を嫌う人が多いために「女性の権利」を守る目的で反対していないというのが不安ではある。

冒頭に載せた記事:

「手術要件、違憲なら混乱」 最高裁の判断前に、自民議連が声明:朝日新聞デジタル

を見ると、手術要件を撤廃すべきでないという理由として「手術要件が違憲ということになれば、(女性の生殖能力を維持したまま、男性への性別変更が可能になるため)法的男性になった後に生物学的な母であり得るなど、大きな混乱が生じる」ことを挙げている。

もちろん、社会の混乱を招くことは良いことではないだろう。

しかし、わざわざ女性議員たちが集まって「女性の安全を守る」と名乗っているのに、社会を主語にして語ることは間違っていると思う。

 

女性の権利を守ることよりも、社会の秩序の方が大事と考えているのではと不安に思ってしまうし、実際そうなのだろう。議員の人たちは「男らしさ・女らしさ」を大事にするという国の秩序を考えているのであって、女性たち個人個人がそれぞれ安全に生きることは二の次なのだろう。

 

共同代表の片山さつきトランスジェンダーの人が女性トイレを利用することについて「生理的不安感」「嫌な者は嫌」と語ったこともあった。

www.reuters.com

女性が女性スペースを安全に使えることを女性の権利として主張することができない立場の人間の限界だ。
「社会の混乱」「生理的嫌悪感」という曖昧な言葉使いではなく、女性が人間として生きるために必要な権利である、とはっきり言った方が良いだろう。

トランスジェンダーの当事者が支援者が「権利」を基に主張をしているのに対して、女性も女性の「権利」がある、その「権利」がぶつかっているという現状をはっきりさせるという点でも大切なことだ。

 

わきまえた主張しかできない、保守派の議員以外で、女性の立場に立って、女性の権利を主張する立場の人間は議員だとほぼいない。
富士見市の加賀ななえ市議会議員くらいしか私は知らない。
(加賀は性同一性障害特例法自体を廃止すべきと言う考え方のようだが、私は性同一性障害特例法自体は必要としている人がいるので残すべきと考える。それでも、彼女の一貫して女性の立場と権利を守るために活動する姿には勇気づけられている。これからも応援したい)

悔しいが、右派と蔑まれながらも(右派だからといって蔑まれる謂れはない)「女性の安全を守る議連」の活動を応援しながら、そうではない勢力を探して応援したり、自分で小さな声を上げていくしか方法はないのだろう。

 

まとめ-女性差別があるこの国で手術要件撤廃に反対するということについて

戸籍の性別変更の手術要件撤廃が憲法違反かどうかについて、年内には判決が出る。
それについて多くの記事が出るだろう。その話を取りあげる人もいるだろう。

忘れてはいけないのは、この国では女性差別が厳然と存在しているということだ。

女性が自立して生きていくことが難しく、自分の声を社会に届かせる権力もない場合が多い。
女性に対する差別的な目線や、女性の存在を軽く見る社会の目線もあるが、女性の身体的な特徴があること、その特徴を持って出生時から「女性」と見なされて生きてきたことに大きな原因がある。
そのことを軽く見る風潮がトランスジェンダーの権利を主張する周りではある。
「身体的性別なんてない」と言われたりするし、女性として社会で生きようとしていれば身体的な女性と同等である、という意味のこともよく言われる。

私はそこに、身体的女性の声なんて聞かなくても良い、という女性蔑視の視線を感じる。

しかし、女性蔑視の視線は別にトランスジェンダー周りにのみあるだけではない。この国ではあらゆるところに女性蔑視があり、政治の場にもあるし、司法の場にもある。
確実に存在している女性蔑視…それは女性の身体性に(すべてとは言わないがかなりの割合で)要因があるのに、手術要件撤廃によって、男性であることや女性であることに身体的にその性別であることは関係がない、ということになってしまう。
女性蔑視がなぜあるのかという、身体性の部分が見えなくなってしまう。あえて直視して指摘しようとすると、否定され差別ということになってしまうかもしれない。

 

女性がその身体性のために不利な状況に置かれる中、その生きにくさを解消するために女性用スペースや女性採用枠、女性スポーツがあり、女性が自分らしく生きられるように少しでも工夫がされている。
そのことも手術要件撤廃によって、取りあげられることはないまでも、女性の生きやすさは後退するかもしれない。それに対して女性が声を上げることもできなくなるかもしれない。

 

女性スペースの例一つとっても、「手術はしていないが戸籍は女性になったから女性スペースを使える」主張をどこまで受け入れるのかという問題がある。
差別をしないために女性スペースを使える、と決定したらそれこそ女性が安全にスペースを使える、という安心はなくなってしまうだろう。

 

安心なんて必要じゃない、女性の特権だという意見もあるだろうが、もともと女性差別がある国で、女性が専用スペースを用いて少しでも安全を確保し、安心して生活できるというのは、必要な権利だ。

 

女性の権利が守られず、女性の声が聞かれないこの国で、私は手術要件撤廃に反対する。
これ以上女性の権利が軽視されたり、女性の声が黙殺されたりすることのないように。