笙野頼子さんの唯一無二の強さー「海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集」

笙野頼子さんの本を読んだ。

先月、最新刊である『発禁小説集』が発行されたが、そちらではなく2020年に発行された文庫『海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集』の方である。

難解ではあるのだが、ただ難解なだけでなく、その先に必ず得る物がある。

特に80年代の作品は暗く閉塞的である。孤独の中で抱く妄想について書かれていて、恐ろしく鋭く組み立てられた、美しい文章で綴られている。生きるために妄想を抱き、妄想と戦い、妄想とともに生きているという凄まじさがある。
90年代の作品になると少し開放的になるが、それでも鋭く身の回りの出来事を切り取る鮮やかな表現力は変わらない。女性が一人暮らしすることの困難も描かれる。
デビュー後10年本が出ず苦労していた時代の作品達であるが、独創的な輝きは十分にあり、読み応えがある。


それだけでも読後十分に満足したと思うが……

さらに文庫化の書下ろし「記憶カメラ」という作品が収録されている。私小説であり、収録された作品群を書いた頃の振り返りと現在の状況についても知ることができる作品である。

そこで、初期作品を書いていたころに体調が悪くて動けなかったり、他の人のように働けなかったりしたのは難病のためだったことが分かる。

笙野頼子(ここから敬称略)は女性であるが故の困難に遭いながら、自分を男を感じたり自分が女の肉体を持つことに向き合うことになったりしながら生きてきた。
小説家としての言葉を武器に、誰にも理解されずに難病と戦い、外部とも戦ってきた笙野頼子の唯一無二の強さがそこにある。優しさも……

私が惹かれたのは、難病について書かれた文章の一部である。

さて、それから何十年? 病名がついたのは五十六歳、十万人に数人、混合性結合組織病、膠原病の一種。就業率十五パーセント、圧倒的に女性の病気、よくフェミや左翼の女性でさえも専業主婦を叩いているが、その中にはこの病気の人もいて、中には合併症の肺動脈性高血圧になってしまっているのに糖尿病の姑の看病をしていたりする。その他には私よりずっとハードな検査をした後でそのまま家族四人のご飯を作っている女性もいる。

私は笙野頼子と同じ病気の人ではないし、他の病気も患っていない健康体の女であるが、他の事情で専業主婦である。
確かに、専業主婦を志望する若い女性に説教したり、専業主婦をしていた親世代を批判するフェミニストたちがいる。今でも様々な理由で専業主婦をしている女性は多いが、ポジティブな取り上げられ方をすることは少ない。
そんな状況で、フェミニストとして認知されている(されていた)笙野頼子が専業主婦にも理由があるのだと認識してくれているのは、私とは全く違う境遇の話であるとはいえ救われた気持ちになる。

 

後に、こういう箇所もある。

(前略)そんな私が「ソフトじゃない売れないフェミニズムはいらない」とか言われる覚えはないしそもそも流派のあるようなフェミではない。今はただフェミ自称の乗っ取り男や侵入男、フェミ説教強盗を女の居場所から叩きだせと言いたいだけ。私? 私は文学だ、思想ごときになる前の永遠の原初だよ。なんらかの哲学や思想、政党等と親和的にしていてもいつでも捨ててやる。

思想如き…

その思想と合わせることができない自分のことをずっと考えてしまっていた私にとっては衝撃的な文だったし、確かに、いくら自分が救われた思想だからといって、その思想に縛られるのはおかしいと思えた。
一人一派といったり、幾つかの流派があったり、それでも〇〇なのがフェミニズムだ。そうでないとのはフェミニズムでないという言葉が目に入ると胸がチクリとなる。フェミニズムがさらに世間で認められるようものになるためには一人一派とか言ってられないだろう。一つにならなければいけないのだろう。
私はフェミニズムに感銘を受けて支えられてきたのに、結局そのフェミニズムが一般化する障壁となる存在になって居ると思う。というか最初から私はフェミニズムの思想に見合う人間ではなかったくせにそれに惹かれていただけだったのだろう。


しかし、フェミニズムという言葉は不思議である。
一見フェミニズムは女の権利運動を表す言葉に見える。
他の権利運動……たとえば、障害者権利運動であれば、いくら派閥に分かれることがあっても、まず障害者がその言葉が示す範囲から漏れることはありえないだろう。
しかし、フェミニズムの場合、流派に別れるだけでなく、そこから「本物のフェミニズム」の議論があり、その結果として女がそこから漏れることがある。どの女がフェミニズムから漏れるのかの判断を女ではない人……たとえば男が下すこともある。


とにかく、私はフェミニズムという思想のために生きているのではないし、その他の思想のために生きているのではない。ただ私は私のために生きているだけだ。
そのために、思想でも何でも、あるものは利用して、合わなくなれば捨てていくという強さを持って良いというメッセージを笙野頼子の言葉はより与えてくれる。
私は文学だ、なんて口が裂けても言えないけど、私がより私として生きるために、様々なものを味方につけたり利用しながら強く生きていこうとすることが文学的に見える日が来るかもしれない。

笙野頼子の作品を読むと力付けられることが多い。笙野頼子が同じ時代を生きていることを嬉しく思う。
私は笙野頼子とは違う人間だ。難病ではないし、他の苦労もそんなにしていないと思う。
それでも、闘って良いのだ、と思える。私のやり方で、好き勝手に、誰にも文句を言わせない……私は笙野頼子から貰った強さを武器に闘い生きていこう、と思える。そう思わせてくれてくれる本は希少だ。

凄まじい文章能力で自身を、この社会を見つめ切り取り闘っていく。そんな笙野頼子の姿の昔と今を読むことができるこの本を読めて良かった。

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