【追記あり】参議院選挙の投票日が近いので、政治について考えてみた―本当に「誰も取り残さない社会」とは何だろう?

参議院選挙の投票日があと一週間後に迫っている。
自分の中で整理できていない部分も多いが、考えていることを書いてみる。こういう機会に、自分が望む政治について考えたくなったからだ。
 
先日、私が子供と外を歩いていると、山谷えり子の応援演説に遭遇した。
支持している人たちが一定数いるようで、演説のところにも人だかりができていた(大半は素通りしていたが)また、ポスターを貼っている家や施設も近所に複数ある。
 
七生養護学校事件において障害児に性教育を行わせないように圧力を掛けて、未だに同じ思想の元で議員活動をしている山谷えり子だけは絶対に投票しない。
全ての子供がそうだとは思うが、特に障害のある子供にとって、正しい性の知識を自然に身に着けるのは難しいことが多い。適切な性教育を受けずに大人になれば、性被害の被害者になったり加害者になったりするかもしれないし、そこまでではなくても性の知識がないことで遭わなくても良い不幸な出来事にあってしまうかもしれない。
家庭や周囲の環境だけでは性教育が十分に行われるかはわからないし、学校で適切な性教育を受けることが社会で生きていくには必要となっていくだろう。
「過激な性教育」という表現もあるが、子供の理解力には個人差がある。具体的なことを教えなければ、何を教えられているのか分からない子供もいる。分からなければ社会で使える知識にすることができない。授業では性のことを避けていても、外では避けられないこともあるのだし、そこで自分で対応できるようになるためにも性教育は具体的にやるべきだ。
 
そういう理由で、山谷えり子の活動については許せないのだが…
 
私が以前ある政治家の言葉に感動して、希望を感じたように、山谷えり子の言葉に感動して、希望を感じた人は、それなりの数いるんだろうとも思う。山谷えり子が考えるやり方でこそ(「過激な性教育」を避けたりするやり方でこそ)子供が立派な大人に育つのだと考える人もそれなりにいるのだろう。
だから、山谷えり子を私や誰かが批判することで、自分のことが批判されたと思う人もいるのだろう。
 
私は日本維新の会についても全く支持できないのだが、私が住む場所では圧倒的な支持を得ている。支持している人たちが私よりも知識がないとか人格的に未熟だとかそういうわけでは全くなく、それどころか私よりもずっと多方面に知識があったり、人格的にも私よりも素晴らしい人が実際に支持している。日本維新の会を私や誰かが批判することで、そういった人たちが不快に感じることもあるだろう。
 
そういうことを考えると、少数派が無闇に他の党や議員の批判をすることは難しいと思う。当選して議員をやっているということは皆それなりの支持者を集めることができる、それだけの物…例えば希望を多くの人に与えたひとなのだから…
 
では批判せずに多数派に投票すれば良いじゃないかという話になるかもしれない。多くの人…私よりも知識的にも人格的にも素晴らしい人がその中には多数含まれているだろう…が支持している所に投票すれば間違いないのでは?
 
しかし、私にも理想があり、それは一言でいうと「誰も取り残さない社会」であって欲しいということだ。
「誰も取り残さない社会」という言葉やそれに近い言葉は最近はよく聞かれる。誰かは忘れたが政治家がそういうことを言っていたようにも記憶している。そう言うのは簡単だが、実際に本当に「誰も取り残さない社会」とはどういう物なんだろう?とも思う。
 
誰かが「これは絶対に必要だ」と思うことが誰かにとっては「これは絶対にあってはならない」ということになる。どちらかの意見が間違っていると潰してしまうこともできなくはないが、それで「誰も取り残さない」なんて言えないだろう。
 
また、誰もが接するのが嫌だと思ってしまうような人も取り残さないようにしなければいけない。
先日、よく行くスーパーで店員に怒鳴っている客がいて、それを見た私は落ち込んだが、そういう怒鳴るような人も幸せに生きられるような社会を目指さないといけない。
もちろん、怒鳴ることを許容する社会というわけではない。罰が必要なこともあるだろう。
 
行為についての批判はするべきだけど、存在を否定してはいけない、ということを私は言いたいのかもしれない。
どんなに他人に不利益を与える存在だとしても、行為を批判しなくてはいけないのだし、存在は誰にも批判できない。幸せに生きる権利があると言える。
冒頭の山谷えり子の件についても、性教育をすることを妨害したこと、今も妨害しようとしていることは許せないが、山谷えり子という政治家のすべてを否定したいわけではない。

世の中酷い人間はいくらでもいる。信じられないことをする人間もいる。
それでも、どんなクソみたいな人間でも、そのクソさは批判されたとしても、幸せに生きていける日本にしようという社会が良いと思う。
 
選挙というのは誰を選ぶかという話だから、候補者が自分の立場の正当性を主張し、対立候補の批判をするのはある意味当然だ。しかし、批判だけでは、誰か敵を見つけてそれを攻撃するだけでは、社会をよくするには不十分だ。
もっと大きな希望を持って、日本なら幸せに生きられるだろうと思える、そのために頑張ろうと思える社会を目指そうと明るく言える人たちを選びたい。その人々はすべての人々であって、誰かが取り残されるようなことはあってはならないと自然に言える人たちを選びたい。
実際「誰も取り残さない社会」とはどういうものなのか考えることも難しいし、実現はもっと難しいだろう。それでも、それを目標としない政治に私は魅力を感じない。
 
誰かは意見を言うことができるし受け入れられる、誰かは意見を言いにくいし言っても誰も取り合わない…なんてことはあってはならない。すべて受け入れることは不可能でも、すべての人の意見を尊重はして欲しい。
 
 
理想通りとはいかないまでも、それに近い候補者を選び投票したい。
そうすると、結局は当選確実な候補者ではなく、あまり支持されていない候補者を選んでしまうのだが…(全く可能性ゼロではなく当選争いはできる候補者を選ぶつもりだが)
自分が投票した候補者が選ばれることが少なく、選挙当日は憂鬱になる。でも、投票したことに意義があるのだと言える。
日本にも色々な人がいる、多数派ではない少数派の人がいる。その中の一人である私という存在を考えることができるからだ。
いくら少数派とはいっても、投票数ゼロの候補者なんていない。結局は多数の支持を集められる人が当選するのだが、それだけではなく実際は色々な考えを持つ人がいるのだ、いて良いのだ、ということが実感できるのが選挙の良いところだと思う。
 
まとまりのない文章だが、選挙間近の今、私が考えたことを書いてみた。
 
【追記】
山際大志郎経済再生担当相が街頭演説で「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない。本当に生活を良くしたいと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」と発言したらしい。

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注意を受けたようだが、それだけでは全然処分の足らない、あってはならない発言だ。
野党の議員の背景には、支持して投票した数多くの有権者がいるのであり、その話を「何一つ聞かない」というのは有権者の話を何一つ聞かないということに繋がる。野党の議員も有権者の代表だという考えがそこにはない。
自民党、与党と野党の議員との間で、話を聞くか聞かないかに差をつけることはあってはならない。有権者の代表である議員という立場の人間ですら野党というだけで話を聞かれないというのは「誰も取り残さない」社会から最も遠いものだろう。
有権者…国民を馬鹿にしている、あってはならない発言だと思う。