noteで笙野頼子が日本文藝家ニュースで書いた文章を批判した榎本櫻湖氏に対する反論

 

noteに投稿されたこの記事について書く。

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前にこのブログでも取り上げた日本文藝家ニュースに掲載された笙野頼子の文章に対する批判を行っている。

hananomemo.hatenablog.com

記事を書いた榎本氏は、文芸誌にもこの文章と同じものを送ったようだ。
反応はなかったようだが、今後何らかの形で影響があるかもしれない。

また、笙野頼子氏の作家としての活動が、トランスジェンダーに対する彼女のスタンスのせいで阻まれている可能性がある。
実際そうなのかはわからないが、国際的な動きを見ても、トランスジェンダーに対して意見をすることが困難な状況があると思う。

いや、トランスジェンダーに対しての意見ではないだろう。
女性に対する意見をすることが困難になっている。

女性という言葉にトランスジェンダー女性を含む意味以外の意味を持たせることが許されなくなってきている。
女性というのはgender identityが女性という人のことを指すだけではなかったはずだ。
女性(動物で言うメス)の身体を持つもの、という意味も含まれていたはずだ。

 

しかし、その意味における女性、女は言葉の定義の中で、消されそうになっている。
笙野頼子の文章は過剰にも見えるが、確かに「女という文字は次々と消え」「女体も女権も女の歴史もリセット」という状況はある意味で進んでいる。

 

榎本氏は笙野頼子にタイトルで自分の性別を尋ねている。
私は笙野頼子ではないからどう答えるのか想像つかないが、1か0かで答えが得られる質問ではないだろう。

 

差し出がましく私が答えるとしたら、女性であることを否定することは絶対にないが、ある意味で(身体的という意味で)女性でないということは確かだろうということだ。

 

身体的または生物学的に女性という話をすると、陰茎のあるなしで決めているとか、性器で判断して決めているという風に言われることがある。
しかし、身体的というのはそういう意味ではない。
そこまで単純にはいかないが、確かに身体的な女性や男性という区別はつけられるはずだ。
例えばKathleen Stockの Material Girlsという本にはいくつかの身体的に女性であることの識別の方法がいくつか取り上げられ、検討されている。

確かに身体的に女性であるという状態は存在する。
その事実を無視してはいけないのは、女性は身体性だけで差別をされているわけではないが、身体性を無視しては見えない差別もあるはずだからだ。

 

女性用スペースやスポーツに関しても、女性の身体を重く見ている者とそうでない者がいるから、衝突が起きるのだろう。
スペースにしてもスポーツにしても、差別のない状態を重んじるならば男女混合にすればそれで済む。
しかし、そうすると女性が女性の身体を持つが故の困難に直面するからこそ、差別に見えかねない、しかし必要な区別がつけられたのだ。
そのとき、トランスジェンダーのことは考慮されていなかっただろう。

現在、多目的トイレやジェンダーフリートイレがある所は限られているため、トランスジェンダーの人が男女のどちらを使うかという問題はある。
しかし、だからといって男性と女性の身体的性差のことを軽く見ればよいというわけではない。
もともと男女トイレは身体の性別で分けられていたという原則は忘れないでほしい。

 

榎本氏は笙野頼子に自分は女性トイレを使っていることを伝え、笙野頼子がそれを通報するのか?と問うている。
笙野頼子がどう答えるかは私にはわからないが、私はその問いは的外れだと感じる。
問題は、一個人を通報するかどうかではなく、通報ができるかできないかということだ。
「女性と自認している人」「女性として社会に生きている人」をすべて女性として常に扱わないといけない社会になってしまったら、そもそも通報することが許されなくなるだろう。逆に差別者と言われてしまう社会になるかもしれない。
日本では正式にセルフID法が採用されることは当分ないだろうが、トランス女性に見える人は女性用スペースにおいて女性として扱わないと差別だ、という空気が広がる可能性はある。世間の空気がそうなってしまえば、女性用スペースに関して言えばもうセルフID法があるのと変わらないだろう。
女性の身体性は重視しなくても良いという無理解によって、女性用スペースに意見することが差別ではないかと疑われてしまう。

セルフIDという思想は、トランスジェンダーにだけ影響するわけではない。
性別=自分で選ぶもの、という思想は、すべての人…特に性別に今は含まれている身体的な意味が消されるという意味で、特に身体的に差別されてきた女性に影響が大きい。

 

もちろん、女性の身体的側面が重視されなくなることや、ゆくゆくは消されることを喜ぶ女性もいるだろう。
なくなっても別に構わないという女性もいるだろう。
それはトランスジェンダーの女性もいるだろうし、そうでない女性もいるだろう。
ただ、そういう女性がいるからと言ってそうでない女性の意見を無視しても良いというわけではない。

女性という言葉から身体的女性という意味が取り除かれる(そこに意見をすると差別者と見なされる)ことに対して意見を言うことは、女という言葉(の一つの意味)を守るための闘いだ。

笙野頼子が榎本氏の意見にどういう対応をするか、私は分からない。
ファンのことをとても気遣い愛情を掛ける作家という印象があるので、笙野頼子がファンの言葉に対応して、今までの意見を変える可能性もあるかもしれない。
しかし、笙野頼子がどう対応しようと、私は闘い続けたい。

榎本氏は「闘おうとはおもわない」と書いているが、笙野頼子の文章を差別発言と言っている時点でもう闘っているのと同じと私は考える。
そこをごまかして、命を奪おうとしていると笙野頼子にまるで人殺しのように言って脅して、勝利しようとしている榎本氏に私は反対したい。