2021年12月7日に李琴峰さんがツイッターで笙野頼子さんを批判したことへの反論

2021年、12月、私の好きな作家の1人である笙野頼子の書いた文章が、同じ芥川賞作家である李琴峰という作家によってツイッターで批判的に取り上げられた。


https://twitter.com/Li_Kotomi/status/1467963111156367362


日本文藝家ニュースという、一般人は読むことが困難な媒体に書かれたエッセイだったが、他の作家がそのエッセイの画像を上げていたので、私も読むことができた。

李氏によると、笙野頼子の文章は陰謀論だそうだ。
たしかに「女という文字が消え、女という存在自体が差別者になる」という一文があるが、そんなことはありえないと思うかもしれない。
しかし、これまでの笙野頼子の書いたものを読めば、ここでいう女は「生物学的、身体的な女」であることは間違いない。
そんなものはない、という人もいるかもしれないが、現在、生まれた時に医師による性別診断はある。ほかの生物の雌雄と同じように、ヒトにも身体の特徴で男と女に大体は分けられる、と考えられる。例外的な人間もいるかもしれないが、だからといって身体的、生物学的な女性の判別法がないとは言えないだろう。判別法があるということは、身体的、生物学的な男性や女性は存在する、と言える。笙野頼子の言う女というのはそういう意味だろう。

その意味の女という言葉をなくそう、という動きは確実にある、と言える。「トランス女性は女性です」というフレーズがある。女性に常にトランス女性を含めるべきという意見は広がっている。
それは、女性の身体を問題にするときにも例外ではない。スポーツで女性としてトランスジェンダー女性の選手が出場するのも一例だ。生理や妊娠、出産の話をするときに女性という言葉を使わず「生理のある人」や「子宮のある人」という言葉を使うことが適切だ、と言われるようになったのも一例だ。
はっきりとは言われないが、確かに、身体的、生物学的な女を指す女という言葉は否定されようとしている。「トランス女性は女性です」や、大会に出場するトランスジェンダー女性選手や、「生理のある人」呼びに反対する人は、トランス差別者と呼ばれる可能性がある。そういう空気に染められることで、嫌だ、と思っていても言えなくなっていく。

「女という文字が消え、女という存在自体が差別者になる」というのは、女=身体的、生物学的女性とすれば、決して荒唐無稽ではない。女=トランス女性を必ず含む、となればそういう意味での「女という文字が消える」し、「女とはそういう意味だけの存在じゃない。身体的、生物学的女性は存在するし、それを指して女と言っても良い」と主張した者は差別者と非難される社会になれば、「女という存在自体が差別者になる」というのも間違いではない。
それを笙野頼子は敢えて女とだけ表現している。逆に、トランスジェンダー女性と書くべき部分については敢えて男と書かれている。笙野頼子という作家らしい文章で、笙野頼子の感じている問題意識を露わにしている。

(トランスジェンダー女性を男と書くのは良いことではないと私は思う。しかし、私も笙野頼子と同じように、トランスジェンダー女性はどんな文脈でも常に女という考えには反対の立場だ。生物学的女性という存在を消そうとする「トランス女性は女性です」等のスローガンに対抗するためには、あえて(生物学的には)男だと言わなければならない場合もある、と私は思う)


腹立たしいのは、そういう注意を払っている文章に「陰謀論」や「悲しい」やらの拙い感想を投げてツイッターで共感を集めようとした李氏の浅はかさである。自分でどういう文章であるか示そうともせず、会員以外読めないエッセイについて、公開で批判をした。あげくに「私はこんな文章を書くような人には絶対になりたくないと強く思った、ということだ」とまで言って、人格否定をする。批判するにしても、やり方があるだろう、と思う。

人にはそれぞれ譲れないものがあり、他人からは下らない不安でも、本人にとっては軽く扱うことなどできない不安であることがある。そういったことを扱うことができるのが、文学の役割の一つだと私は思う。
私は笙野頼子と全く同じ考えを持っているわけではないが、男とは違う肉体を持つものとしての女というものを消されることを危惧している女である。


また、ツイッターをしていない作家がある媒体に書いた文章に対して、他の作家がツイッターで批判をするということについても、私は怒りを感じている。
ツイッターの文章というのは短い文章で自分の共感者を手早く集めて数字として示し、違う意見を持つ者を斬る刃のような特徴がある。
(もちろん、ツイッターで言葉が刃として使われる場面はごく一部だけであり、平和的な使い方がほとんどである)

笙野頼子ツイッターをしているのならば対等な立場で斬り合えるが、していないのだから勝手に自分の舞台に引き上げて斬るのは違うと思う。


作家でツイッターをしている人はいくらでもいるが、ツイッター的な価値観…正しくない者は言葉の刃と共感者の数の刃で斬れば良い、という価値観は文学の世界で主流になって欲しくない。

 

笙野頼子は1990年代に純文学論争というものを起こし、言葉の刃で論敵と闘った。
しかし、それは自分自身が研いだ言葉でのみだった。
ツイッターのような、多少拙い言葉でも敵を叩けば同じ欲を持つ共感者を集められるようなツールは使っていなかった。(ツイッターの存在自体がなかった)
ツイッターを使うのは自由だが、気をつけないと、作家が言葉への高い意識を失うことになると思う。
文学は孤独に言葉を研ぐものだと私は思っているので…そんなの思っているのは私だけかもしれないが。


女と文学という、私にとって大切な2つのものに対する危機感を李琴峰氏のツイート群に対して感じたので、反論を試みてみた。
自信はない。
ただ、自分が抗ったという記録を残しておきたかったのだ。