文藝 2022春号に掲載された水上文氏の文藝季評を読み、笙野頼子氏の言っていることを理解しようとして欲しいと思ったなど  

文藝2022年春号に水上文氏によって書かれた「たったひとり、私だけの部屋で」という文章に群像12月号に掲載された笙野頼子氏の小説「質屋七回、ワクチン二回」の一部内容についての批判が載っている。

 

 

批判するのはなんの問題もない。
しかし、水上氏は笙野氏のことを理解しようともせずに批判しているように見える。

読んで思ったことを書いてみる。

 

①「生物学的性別に基づく女性の権利」を守ること=トランス女性に対する差別?

 

作品内で笙野頼子氏はWHRCという団体と関りがある仲間と交流をしている。
そのWHRCは「『生物学的性別(セックス)に基づく女性の権利』を守ろうとする」団体と記される。そこから水上氏は飛躍して、WHRCと関係のある笙野頼子氏の仲間は「トランス女性に差別的な言動を繰り返す人々」だと指摘する。
なぜ水上氏はもう少し丁寧に説明しないのだろう?これでは「生物学的性別に基づく女性の権利」を守ること=トランス女性に対する差別になってしまう。
これでは笙野頼子氏のいう「女という存在自体、生まれ自体が差別者にされる社会」にもうなっているのではないだろうか?笙野頼子氏の言う女というのは生物学的女性(セックス)のことなのだから…生物学的女性の権利を求めるだけで差別とされることを水上氏は肯定しているのだろうか?
「生物学的女性の権利」のどこに問題があるのかもっと詳細に書いて欲しかった。

 

➁J.K.ローリング氏の発言について

 

その後、文章は笙野頼子氏が日本共産党ジェンダー平等委員会に「問い合わせ」を行った件についての話になる。
そこで笙野頼子氏がJ.K.ローリング氏への「連帯」を記す言葉を用いていたが、水上氏はJ.K.ローリング氏がトランスジェンダーへの差別的発言をしたと言う。
注でなぜJ.K.ローリング氏の発言が差別的だったのかに対する説明があるのだが、その説明では説明不足だろう。
「記事では『少女、女性、そして全ての生理のある人々』と書かれている」とあるが、記事タイトルは「生理のある人々」としかない。

つまり、女性が自分を「生理のある人々」の一人であることを認めなければ、そう呼ばれることを認めなければ、記事をクリックして読むことすらできないのだ。
J.K.ローリング氏のツイートは真面目さよりも茶化すようなトーンがあり、私はあまり支持できないのだが、それでも自分を「生理のある人」と呼ばれたくないという気持ちは私にもあるし、はっきり拒んでみせたJ.K.ローリング氏には救われた。

J.K.ローリング氏はのちに長文で自分の発言についての説明をしている。

www.jkrowling.com

女性はずっと生理という機能や子宮という部品を持つ道具のような扱いを長年されてきたし、今も道具扱いされている。だから、「生理のある人」「子宮のある人」といった呼び名を受け入れたくないという私みたいな女性は確実にいる。
しかし、このまま声を上げないでいると、「生理のある人」という呼び方こそ誰も排除しない良い言葉とされ、女性は「生理のある人」呼びを受け入れないといけない状況に追い詰められてしまう。

タイトルなんてどうでも良いじゃないかと思うかもしれないが、そういうタイトルであったことを水上氏は注に記して欲しかった。

 

③「世界中で女を消す運動」は陰謀なのか?

 

(1)「女を消す運動」は確かにある

その後、水上氏は「何より問題なのは、トランス差別への批判や権利の擁護が、小説ではあたかも世界的に広まる陰謀であるかのように描かれていることである」と書いている。
しかし、実際に女というものをジェンダーアイデンティティのみで定義して、生物学的、身体的な性としての女性を軽く見たり、そもそも存在しないものとする動きは広がっている。


続く文章で水上氏は

世界中で女を消す運動はこれからどんどん発展していくのだろうか?と「私」は言う。女を消す運動ではなくて女を抑圧する運動、女の中でも暴力と差別の危険性にとりわけ晒されている女をさらに追い詰める運動、そんな運動こそがまさに「フェミニズム」の名の下で広がっているにもかかわらず。

と書いているが、前半部の「私」(笙野氏のこと)の言う女は生物学的、身体的な女性のことを言っているし、後半部の水上氏の指す女はジェンダーアイデンティティが女である(トランスジェンダー)人のことを言っているのでかみ合っていない。
生物学的、身体的女性のことを言った笙野氏の言葉をジェンダーアイデンティティに基づく女性の話で塗りつぶしてしまっている水上氏の言葉自体が「女を消す運動」なのではないだろうか?

 

陰謀かどうかはともかく、そういう動きは広がり続けているのはニュースを追っているだけでもわかる。
例えば三省堂の辞書では「女」を引くと

「人間のうち、子を生むための器官を持って生まれた人(の性別)。」
〔生まれたときの身体的特徴と関係なく、自分はこの性別だと感じている人もふくむ〕

となっているようだ。

www.nhk.or.jp

項目で分けてすらいない。
生物学的、身体的に女性である人(動物の雌に当たる人)のことを指す言葉は三省堂の辞書の中には存在しなくなってしまっている。

「自分は女性であると感じること」、ジェンダーアイデンティティを重視するあまり、女性の身体的な部分が軽視され過ぎている。
その扱いの軽さが、女性スポーツや女性専用スペースに対する扱いにも表れてしまっていると私は思う。

 

(2)女性専用スペースについて

2018年にお茶の水女子大学トランスジェンダーの学生を受け入れることがニュースになったとき、私は賛成していた。
ツイッターでは女性トイレや更衣室をトランスジェンダーの学生が利用することについての不安の声が多かったが、私は大学側が対応するだろうし、大丈夫だろうと楽観視していた。女性トイレや女子更衣室をどのようにするのかには細心の注意を払うだろうと思っていた。

しかし、段々わかってきたのは、トランスジェンダーやその支援者のかなりの割合の人がトランスジェンダー女性が女性トイレや女子更衣室を利用することは当然で、ほかの女性が受け入れることも当然だと考えていることだった。

ニュースを見ていると、そういう話(トランスジェンダー女性が女性専用スペースを利用することで他の女性と衝突する話)が定期的に出てくる。

最近も甲南大学の学生たちが女性用トイレに入るトランスジェンダー女性を盗撮したり誹謗中傷したりする人たちのドラマを作り発表したようだ。
SNSでの攻撃を演出するために架空のツイートも作成して見せている)

www.kobe-np.co.jp

もちろん、盗撮も誹謗中傷もいけないことだ。それははっきりしないといけない。
(被害を訴えるために警察に出す証拠映像を撮影するような事情がある場合は別だろう)

ただ、このドラマによって「女性用トイレは身体が女性の人が使うトイレである」という暗黙の了解が崩れてしまっているのはどうなんだろうと思う。
今までもトランスジェンダー女性が女性用トイレを使うことはあっただろうが、そのことと「トランスジェンダー女性も女性用トイレを当たり前に使える。それを咎めることは差別である」と公表することはかなり違う。

 

もともと女性用トイレは男性よりも性被害に合うことが多いという女性の経験から抱く不安や困難に対する対応としてできたものだろう。
実際に安心できるかはともかく、それによって女性は多少の安全を手にして社会で生きていくことができる。
幼い頃から被害に合いやすい性であることを自覚させられ、自衛して生きろ、被害に合ったら自己責任と言われてきた女性にとって、女性用トイレをはじめとする女性専用スペースというのは貴重な避難所であり、大切な意味を持つ。

トランスジェンダー女性にも不安や困難があるとは思うが、女性用トイレを使うことが当然と考えること、そこまでならまだ良いが、声を上げて主張することは違う。
男性・女性とどう分けるかなんて、本人の内心ではどうとでも判断できるが、自由な解釈で女性用トイレに男性が入ってきてしまっては分けている意味がない。今のところ、基本的には体の性別で分けているという建前が存在していて、大体の場合守られているから女性も安心することができる。
実際、女性用トイレをトランスジェンダー女性が利用することは今もあることだろうが(防ぎようがない)、建前を前提に利用しているのと、建前を崩しさらにそれを広く知らせることとは全く別の話だろう。

さらに、甲南大学の動画に限らず見られる傾向だが、女性用トイレを使うトランスジェンダー女性=当然の権利がある人、女性用トイレのトランスジェンダー女性利用に疑問を持つ人=差別者という単純化された図式を啓発しようとする。
その図式を押し付けながら、反対する女性を簡単に差別者だと認定する回路を支持しながら、理解し合うことを呼びかけられても欺瞞としか感じない。

④既に「自由」は奪われている

水上氏は「文学の自由は守られるべきである」と書いているが、その後に続く言葉を読むと、結局笙野頼子氏のような思想を持つ者は文芸誌に書くなと言っているようなものである。

表現する「自由」を語るときには、自身に対する差別的な表彰や言説がまかり通るような状況で、どんな風に当の差別の対象とされた人が「自由」を実感することができるのか、どんな風に、「自由」の行使を恐れなければならないか、萎縮し、怯え、苦しまなければならないか、そうしたことを含んで語られなければ意味がない。表現する「自由」が叫ばれるとき、誰がそれを最も行使しているのか? 誰の「自由」がより優先されているのか?誰の「自由」があらかじめ奪われているか? これらを踏まえずに語られる「自由」は、そもそも「自由」などという言葉で表現すべきではない。自由とは、文学とは、そんな風であるべきではないのだ。

引用が長くなってしまったが、直接的には決して言わないが、水上氏は笙野氏のような人物の「自由」は自由ではないしそんな「自由」は許されないと言っているのだ。

このようなことはここだけではなく、至る所で行われている。
トランスジェンダー権利拡大の動きの中で、笙野氏のような立場の人は肩身が狭く発言の場が制限されると同時に、トランス差別者として責められ、そのような人の発言は聴くに値しないものとされる。さらに発言を曲解して本人が求めている真意と違った受け取り方をされることも多い。

このように発言の場を制限され、発言を差別という名のラベルを張り、真意を理解しようとせずに軽視する。それによって、さらに立場が狭くなっていく…それが笙野頼子氏のような思想を持つ人間の行く末だ。それで良いのか?

 

まとめー女は消されるのかもしれない


このままでは女性というのは身体的、生物学的なものよりもジェンダーアイデンティティの方が重要で、それに比べると体は重要ではないという状況は続くだろうし、さらにその傾向は強まるだろう。

 

そこに文学はどのような態度をとっていくのだろう?
笙野頼子氏のような作家に対してどのような立場を取っていくのか?

立場は色々あってよいと思うが、この水上氏の批評のように笙野氏が言おうとしていることを理解しようとすらしないのはどうなのだろうか?しかし、そのように理解しようとしないことが差別していないこととイコールになって称賛されることも多い。

 

例えば少し前にこういうニュースがあった。

ニューヨーク・タイムズ紙、『ハリポタ』原作者J.K.ローリングにまつわる広告が大炎上! 「彼女を見下すにもほどがある…」 広告に書かれていたメッセージとは・・? - tvgroove

ニューヨーク・タイムズ紙がワシントンD.C.の地下鉄駅構内にある電子掲示板に出した広告に「リアンナは、原作者不在となった『ハリー・ポッター』を想像している」というメッセージを載せたというニュース。
それは「ハリー・ポッター」に原作者はいらない、消してしまえ、ということをポジティブに描いたメッセージだ。
J.K.ローリングのような差別者は自身の作品である『ハリー・ポッター』から切り離され想像されても、それを広告として貼られても仕方ないという思想がそこにある。

作家にとっては命を削って作った自分の分身のような作品をそのように扱われることは許されるのだろうか?
人格否定と同じかもっと酷い話なのではないだろうか?

トランスジェンダーを差別するような人間は自身の作品すら取り上げられても当然だと考えるのだろうか?
笙野頼子氏以外の作家がどのように考えているのかを知りたい。

 

ちなみに、私はJ.K.ローリングの言っていることにすべて賛成するわけではないし、言い回しなどが良くないと思うこともある。それは笙野氏についても同じである。
それでも、私は#IStandWithJKRowlingと言うし、笙野氏のことも支持する。
支持しないと、身体的、生物学的な女性というものがいつの間にか消える可能性があるからだ。

昨日3月10日にも、このようなニュースがあった。

front-row.jp

「女」とは何なのか、私は断言することはできないので、J.K.ローリング氏と少し意見が違うかもしれない。


しかし、私はジェンダーアイデンティティだけが女性を定義するものではないと思っている。同時に生物学的、身体的な女性というものも存在するし、そういう意味でのマイノリティとしての女性のことを忘れてはいけないと思う。
それなのに、そもそも日本の国語辞典ではもう既に「女」という言葉にトランスジェンダー女性が含まれてしまっているし、生物学的、身体的な女性を指す別の言葉もない。
むしろ、「トランス差別反対」と言っているような人たちに「生物学的女性なんていない」などと言われたりする。
生物学的、身体的な女性の話をしているのに、ジェンダーアイデンティティの話にすり替えて笙野頼子氏のような人の言うことを理解しようともしない水上氏のような人も沢山いる。

このままだと女は本当に消されるかもしれない。もう消されているのかもしれない。でも、抵抗すればトランス差別と受け取られる可能性が高い。状況は絶望的だ。
これが絶望ではなく希望と取る人もいるだろう。でも、私のような人間にとっては絶望だから、抵抗したい。

そういうことを考えさせてくれた批評だった。