「生きづらさを抱える人(発達障害の可能性のある人)は子供を産むな」という意見を見て思ったこと

自閉症啓発デーが4月2日にあり、ある漫画家が描いた漫画に結構な反響があって、私はそれを見てしまった。

news.yahoo.co.jp

ニュースを見ただけでは穏やかな反応しかなかったように見えるが、ツイッターではかなりの否定的な引用ツイートがついている。
私がここで取り上げたいのは「発達障害の人が子供を産んだのだから自業自得というか子供に同じ苦しみを与えるなんて…」みたいな意見のことだ。
この人は出産した当時自分を発達障害だという自覚はなかったようだが、生きづらさを感じているだけでも子供を産んだらダメというか、同じ特性が遺伝することを自覚しろ、という意見が多い。

なぜ取り上げるのかというと、私と似ている部分があるからだ。

hananomemo.hatenablog.com

前回こんな記事をのんきに上げてしまったけど、私の境遇と水谷アスさんの境遇はにていなくもない(私は多くの人に読んでもらえる漫画なんて書けないが…)

似ているという部分は「生きづらさを感じていた女が複数子を産み、その子に障害があった」という部分。

発達障害の傾向がある人…生きづらさのある人は子供を産むな、というのは別に新しい意見ではなく、ツイッターではよくある意見だ。
(10年くらい前はまだ遺伝のことはあまり言われていなかったから、ここ数年の傾向だとは思う)

よくある意見だから気にしてはいけないのだが、やっぱり心に来るものがある…
ツイッターは極力見ないようにしていたのに、見てしまった私の問題でもあるんだけど…

もちろん、落ち込んでいても仕方ない。
人に理解されにくい選択をした人は、他人から何か言われても気にしてはいけないし、たとえ傷ついたとしてもそのことすら面白がれるくらいに強くならないといけない。
人と違うということは理解されにくいということで、もちろん理解を求めていかないといけないんだろうけど、理解をされないことが当たり前と思っていないといけない。
(それでも、やっぱりここ10年間だけでも発達障害についての理解はすごく進んだと思う。理解を求めてくれた人たちのおかげで、私たちは生きやすくなったんだとは思う)


私と子供を幸せにできるのは私だけだという覚悟でやっていかないといけない。
理解されないことを当たり前に思ってやっていたら、理解してくれる人がいたときに嬉しくなるし、結構そういうことはあるものだ。
…という自分へのアドバイス

 

今の時代、一般的には親と子は別人格であるという考えが浸透している。

昔は親子心中とかもただの悲しい話と考えられていただろうけど、今は欧米みたいにただの子供にたいする殺人と考える人も多いだろうと思う。
親が勝手に子の未来を悲観して不幸と決めることはいけないと思っている人は多いのではないかと思う。

でも、障害のある(可能性のある)人が子供を産むことについての話になると、障害のある子供=不幸と決めつける人が多い気がする。
子供のために子供を産まないなんて理屈はありえなくて、どこまでも親自身の選択でしかないと思うのだが。
しかし、私は分かっている。障害のある可能性のある子供を産まないということが良いことだという考えは簡単に否定できるものではないことを…

たとえば、アイスランドジェンダーギャップ指数世界第一位で、男女平等、高福祉の国だが、妊婦の多くが新型出生診断を受け、陽性が判明すると100パーセントが中絶を選ぶらしい。

bunshun.jp

小さな国特有の事情もあるとは思うが、平等意識がありそうな国でも「障害のある子供は生まれない方が良い」という考えは高く浸透している。それは悪い考えではないから、なんだろうか?

…ここまで書いて思ったけど、親ガチャってことばも生まれたし、障害関係なく、子供への幸せの道筋が確実に描けるような状態でないと産むな、という考えが全体に広がっているというのもあるかもしれない。
その中でも、障害というのは分かりやすく「幸せを阻害する」ように見える要素だから取り上げられがちなのかもしれない…

とはいえ、「障害があるからと言って子供を産んではいけない」という考えは優生思想だから、認めてはいけないとは思う。
優生保護法の被害者みたいな人が再び出るのは絶対にいけないと思うし、そういう時代が再び来ないようにしないといけない。

…しかし、私自身のことを思うと、やっぱりスッキリしない。スッキリしてはいけないような気がする。
だから、ツイッターで否定的な意見を見たら凹むし、見ないようにしているのを逃げみたいに思ってしまう(でも見ないようにしている)

 

何が言いたいのかわからない文になってきたけど…
今の社会は、障害を持つ人、障害のある子を産む人に厳しい社会であることは確かだ。
今後、それが変わるのかも不明だ。

そんな社会で、「生きづらさを感じていたのに子供を産んでその子にも診断が下りた」私のような人は愚か者なのかもしれない(水谷アスさんが愚か者と言いたいわけではないです。愚かなのは私だけ)
それでも幸せだし、未来も幸せになる、と言える強さが必要だと思う。

 

 

 

 

「令和の専業主婦」を専業主婦が聴き、読んで思ったこと

 

朝日新聞ポッドキャスト メディアトーク3月29、30日分のエピソードにおいて同じ朝日新聞のニュースサイト、withnewsの連載「令和の専業主婦」が取り上げられていた。

 


withnews.jp

 

専業主婦は認められていないのかも…

 

私は専業主婦である。
周りに専業主婦の人は結構いる。

子の通う園では、働く母親も沢山いる。
父親が送り迎えや行事参加をしているのも当たり前に見る。
私はその姿を見て、良い時代だと心から思う。
同時に、私の選んだ専業主婦という生き方は今の時代認められていないんじゃないかと思ってしまう。誰に認められていないのかは分からないが。
今後も、専業主婦の立場は悪くはなっても良くはならないのかもしれないとも思う…

多様な生き方の中に専業主婦は入っているのか?と不安に思う。
だから、そういう問題提起(世の中は多様性を謳いつつバリキャリしか認めていないのでは?)をポッドキャストのエピソードの中で共有してくれたのは嬉しかった。

ポッドキャストの放送は、専業主婦の立場ではない人が話すという場でありながらも、全体的に専業主婦に配慮しようという気持ちは感じられた。
育休中に家事育児に専念していた時期に専業主婦のような生活をしていたと話しつつも、育休中の母親と専業主婦の母親では立場が全く違うことを伝えてくれていた。
実際、帰る職場、会社に席を用意して待たれている立場の育休の会社員とそれを持たない専業主婦は全然違うと専業主婦は思うだろう。もちろん専業主婦全員というわけではないだろうが…


専業主婦は働いてお金を稼ぐという成人女性にとって中心となるべき最重要事項とされるものから離れて生きている。
専業主婦の生きる場所だって社会のはずなのに、社会から外れて生きているとされる。それも、自ら望んでそうしていると思われる。
専業主婦はそのことに後ろめたさを感じがちだ。
でも、ただ臨んだわけではなく、ほとんどの専業主婦には専業主婦になった理由がある。

「令和の専業主婦」の連載で取り上げられた専業主婦たちにもそれぞれの理由がある。

さらに、専業主婦とはいえ最初の漫画の人は漫画家として作品を発表していたり、話題になった大学院生の方だったり、以前は専業主婦だったけど、今はパートをしていたり…と専業主婦とはいえ家事育児のみではない方が取り上げられている。
PTAの役員の活動や保護猫の活動をされている方もいる。

私のように家事育児以外に仕事をしていない専業主婦も沢山いるだろうが…

私が専業主婦である理由

 

私が専業主婦である理由を説明するとき、子が障害児であるというのが一番通りが良いかもしれない。
しかし、同じ障害児を持つ母親でも働いている人はいるのだから、それだけを理由にするのは違うと私は思っている。
子の状況と、出産前からの私の状況や、私のさまざまな面における能力を考えたときに、働くことが難しいというのが私の専業主婦である理由だ。
でも、たとえ同じ状況でも、夫がいなかったり、稼ぎが少なかったりしたら、フルタイムは難しくても短時間でも働かざるを得ないだろうし、理由なんて結局はなく、恵まれた女の選択でしかないのかもしれない。
とはいえ、今の私の状況で働いても、家族も私も辛いだけなのも明らかだ。そういう状況があり、私は専業主婦をしている。

やっぱり、専業主婦は認められていないのかも…

夫婦ともに家事育児をしながらフルタイム労働をするというのが現代の正しい対等な夫婦関係であるというのが、今よく見る考え方だ。
しかし、実際、夫婦ともに家事育児をしながらフルタイム労働をするというのは決して簡単なことではなく、状況や能力的にも感じ方は異なる。もちろん、子の状況や個性もある。
それでも、本当に経済的に厳しかったら何が何でも働かないといけないのだろうから(本当は国から補助を受けられたら良いのだろうし、受けている人もいるだろうが、そうもいかない場合も多いだろう)、専業主婦(夫)という選択肢が上がること自体が贅沢な悩みなのかもしれない。

専業主婦(夫)の人はなりたいと思ってなる人もいるだろうが、自分の置かれた状況の中で最善の選択をしたら専業主婦(夫)だったという人も多いだろう。その最善の選択をするとき、選べる選択肢が少ないことも多いだろう。
それでも、ただ専業主婦(夫)であることが居心地悪く感じるし、なんとなく世間に認められていない気持ちも感じるが、そんな悩み自体が贅沢で「暇な専業の悩み」でしかないのか?とまた悩んでしまう。
そういう専業主婦(夫)は多いと思う。

 

ポジティブに取り上げられにくい専業主婦


今の時代、専業主婦がポジティブな意味でメディアに取り上げられることは本当に少ない。逆に母である女性が専業主婦でないことが称賛されることが多い。
昭和平成アニメであるドラえもんクレヨンしんちゃんを見て専業主婦である母親キャラがいると私は同じ立場の人がいて嬉しくなるが、そういうのは古いと言われ、働いている母親を出すべきと言われているのもネットなどで見る。
専業主婦母親キャラはダメなのか?と私は思う。
(専業主婦母親しか出てこないのだったら問題だろうけど、最近はそういうこともないだろうし)

実際、専業主婦はダメだと思っている専業主婦もいる。
働いていないのだから夫よりも立場が低くて当然という人もいる。
私は夫が稼いできたお金は家族のお金と思っているが、夫の稼いできたお金は夫のお金で、専業主婦である自分が好きな物を買うことに肩身の狭い思いをしている人もいる。

逆に専業主婦であることを誇りに思っている人もいるだろう。立場のある夫を様々な面で支えたり、社交の場に出たりすることが求められている専業主婦もいる。そういう役割を果たすことで、世間から認められている人もいる。


一般化して語ることのしにくい立場である専業主婦。専業主婦同士でも話が合うとは限らず、同じ専業主婦でもそれぞれの状況や考え方は違う。

専業主婦の中には、自分はこのままで良いのかと自問自答したり、誰かに認められたいと思う人も多い。
しかし、専業主婦であることに外から何か言われる筋合いはないし、認めてもらう必要もないはずだ。
専業主婦は「社会人」とは呼ばれないが、社会にいて役割を果たしている人だ。少なくとも家族という社会の最小単位の中では役割を果たしている。

 

「令和の専業主婦」で気になったこと


「令和の専業主婦」連載は専業主婦に寄り添い、その生き方や葛藤を丁寧に描く良い連載だと思う。
ただ、疑問に思った点が二つあったので書く。

 

①大学院に行った主婦の方を取材した記事における、跡見学園女子大学の石崎裕子准教授の言葉

withnews.jp

 

石崎氏は現在の専業主婦を「助走期間」と位置付けている。

「専業主婦の間にこれからのキャリアを模索し、いずれは家庭以外の場所にもフィールドを広げていきたい。長い人生の中で、専業主婦という経験を次のステップへの助走期間として意識することに、(主婦である)本人たちも自覚的だと思います」

石崎氏の言葉通りに受け止めると、専業主婦は未来のステップのために助走している存在で、現在は本番ではない存在みたいになってしまう。

「その通り。今は助走期間だ」と思う専業主婦もいるだろうけど、そう思わない人も結構いると思う。
「本人たち」って私は専業主婦ですがその「本人たち」の中には入りませんけど…専業主婦でもない人が勝手に代弁しないでくれませんか?と思ってしまう。

それこそ、私みたいに家庭の外で輝こう、キャリアを築こうと頑張ったけど能力的、状況的にどうしてもダメで、家庭内の専業主婦という役割に居場所を見つけ、「ここでなら私は跳べる」と思えた人もいるだろう。私も、今後はまた外で働いたり別の活動をする可能性もあるけど、今も助走期間ではなく人生の本番だと思っている。

専業主婦にも色々な人がいて、将来家庭の外にフィールドを広げる人も広げない人もいると思うが、それでも現在、家庭の中で専業主婦という立場を得ているのだし、それだけで跳んでいるんだと思う。助走期間である場合もあるかもしれないが、その間も走っているだけではなく、跳んでいるのでもあるのだと思う。

 

➁(ポッドキャストで称賛されていたけど)すべての専業主婦が能力があるわけではない…

ポッドキャストの後半の放送で、主婦がまた外で働こうと思ったときに専業主婦時代のことが「何もしていない」ことになるという問題が取り上げられていた。
それに対して、話者である朝日新聞の記者の人たちはいかに専業主婦が家事能力や調整能力、嫌な人とも付き合う能力があるかを取り上げ、それは就職しても役立つ能力だと賞賛する。

確かに専業主婦でそういう能力を発揮している人もいるだろうけど、人によるのでは…と思ってしまった。
専業主婦とはいえ苦手なことは夫や他の頼れる人に頼む人もいる。私自身、あまり家事育児は得意でなく他の人に頼ることもある。


「社会」で働き賃金を得ることにいろいろな面で困難を感じ、そのときに夫となる人と出会うことで専業主婦となる人がいる。
私も違う部分もあるが、そういう理由もあった。他の人のように動けない、働けないという葛藤がずっとあり、正社員だった頃に鬱病になって結婚と同時に辞めてパートになった。その後、妊娠出産を機に専業主婦になった…仕事をすることに困難を感じていなければ、おそらく子の障害の診断が出るまでは正社員を続けていただろう。
もちろん、本当に経済的に追い込まれていればパートや専業主婦を選択など出来ない、動けなかろうが病気があろうが正社員で働くしかなかったのだろうから、ただの甘えだったのかもしれない。でも、私は恵まれた環境にあり、それを選択できたのだから、自分を守るために選択した。

外で働くときに求められるレベルで動けないとしても、専業主婦であれば自分の裁量でできるし、できないことは他の人に頼ったり、放置できるなら放置することもできる。雇われて働くとなるとそうはいかないし、好きに休むこともできない。

専業主婦であることで何とかやっている専業主婦のことを取り上げてしまうと、アンチ専業主婦みたいな人を喜ばせてしまうだろうし、専業主婦がなかなか雇われないという現状を変えようとする際に障壁となってしまう。
実際、この企画は今後専業主婦を積極的に雇おうとしている企業を紹介しようとしているようなので、そのためには取り上げる専業主婦は有能な専業主婦であるべきだろう。

社会に認めてもらうために、有能な人のみを取り上げるというのは、他のカテゴリーの集団でもやっている。専業主婦もそういう方針でいかないと全体の立場が良くなっていかないというのはあるだろうから、その方針は間違っていないと思う。

でも、専業主婦は有能な人ばかりではないし、そういう人も「何もしていない」訳ではないし、有能じゃなかったらアンチ専業主婦の人たちによる「専業叩き」の対象になっても仕方ない、というのも違うと思う。

そもそも(言い方が悪いが)無能な人、無職の人に風当たりが非常に強い社会で、その中で「仕事ができる/できない」で評価されることから逃れているように見える専業主婦(夫)が叩かれてしまうのは自然と言えば自然だ。

難しいかもしれないが、無能な人、無職な人に対して世の中の見方を変えるべきのような気がする。
もちろん、それは「令和の専業主婦」でするようなことではないが…

ポッドキャストの中の2人の女性記者が専業主婦の人はすごいと言っているのを聴いて、そういう人ばかりじゃないんだけどな…と思った。

確かに、能力のある人でも専業主婦の復職というのは困難だと思う。
それは採用する側の専業主婦を見る目(採用に消極的)も理由だろうし、主婦業(家族の都合で動かないといけないことが多い)との両立が難しいというのもある。それを専業主婦の人自身が持つ能力だけで何とかするのは大変だ。
そこを助けるような支援は必要だと思う。

ただ、支援があればできる人もいるし、(本人の抱える困難などで)できない人もいる。それだけの話だ。

 

感謝

今も昔も、専業主婦(夫)で生きてくことにはリスクもかなりある。
できるなら、今の時代に合っている仕事も家事も育児も夫婦ともに行う共働き夫婦の方が良いに決まっている。
それでも、様々な状況の中で専業主婦(夫)を選ぶことになった人はいるのだから、そういう人についてのメッセージを発信することは必要だと思う。

専業主婦という存在にスポットライトを当ててくれたことが嬉しい。
感謝したい。

 

 

婦人科検診にて、医師に生理を止めたら良いと勧められ、モヤモヤした話

先日、定期健診に行った。その際に婦人科検診も受けた。

問診表には気になっている症状を書く欄があったので、生理に関する症状をいくつか書いた。

 

当日、医師に診察されながら、黄体ホルモン剤を飲んで生理を止めることを勧められた。
薬で生理を止めることで、生理に纏わる諸症状がなくなるのなら、それは良いことだろう。
副作用が出る可能性もあるが、メリットとデメリットを冷静に考えて選択すれば良いだろう。


薬で生理が止められることは知っていたが、実際自分のような症状くらいで止めて良いのか分かっていなかったので、勧められたこと自体には感謝しかない。検討したいという気持ちもある。


そういう前向きな気持ちとは別に、内心私はカチンと来た。
医師は「生理なんてもういらないでしょ?」「もう止めちゃいましょう」と言った。
医師はずっと私の生理をいらないもの扱いし、生理を止めることを賢い選択だという調子で私に押し付けてきた。


確かに私は経産婦で、妊娠の希望もない。
でも、生理が必要かどうかは私が決める問題であって、医師に決められる筋合いはない。
文字にしたらそんなに酷い物言いじゃないように見えるが、しつこかったというのもあり聞いていてうんざりしてしまった。「妊娠希望でもない若くない女の生理=無駄」という考えの押し付けが酷かった。
早く内診台から降ろしてくれと思った(脚を開いて外陰部を晒しながら話を聴いていたから余計にうんざりしてしまった)


妊娠希望でもないのに生理のせいで日々不快な症状に悩まされ、生活に支障がある日もあるというのは、医師からしたら無駄でしかないのだろう。
でも、あと10年もすればには閉経だろうし、もう少し生理と付き合ってみたいという気持ちもあるのだ。四半世紀の付き合いになる生理と私との関係は簡単に無駄と切り捨てられるものではない。
そんな私の気持ちを医師が理解できそうにないし、理解する気もないだろうということが分かって腹立たしかった。

 

ちょっと違うかもしれないが、数年前に知人が「日本は遅れている。アメリカでは無痛分娩が当たり前で、出産後すぐに退院するし、すぐに職場復帰する」みたいなことを言っていたことを思い出した。
確かに、日本も無痛分娩は広がってはいるが、当たり前というほどにはまだなっていない。私も、希望する人が全員無痛分娩できるくらいに普及して欲しいとは思う。
それとは別にモヤモヤしたのは陣痛イコール無駄ととらえ、それのために職場復帰が遅れる日本人女性を遅れた人間だと思っているような知人の口ぶりだった。無痛分娩だからと言って陣痛がないわけではない、というのもあるが…「無駄な陣痛なんて止めて、出産なんかに手間を取らずにサッサと職場復帰しろ」という空気を感じたというのもある。

 

私もそうしたい人がそういう選択肢が取れる環境づくりは早急にすべきとも思う。
それとは別に、陣痛のある選択をしたって別に良いじゃないか、とも思う。
陣痛にどう向き合うかはそれぞれの親子…子は意思表示できないので母が決めれば良いだろう。


陣痛で母体や子供に見過ごせない害が及びそうなときはもちろん無痛分娩をするべきだし、逆に母親の体質などで無痛分娩ができない場合もあるだろう。しかし、そうでない場合は選べたら良いと思う。
私も無痛分娩が選べる病院で出産したが、無痛分娩を選択しなかった。理由は一つではないが、陣痛というものを経験したかったという気持ちも理由の一つだった。
わたしは自分の選択に満足しているが、理解できない人からしたら、私は「無駄な痛みに耐える野蛮な国の女」にしか見えないかもしれない。


野蛮な国といったけど、日本も無痛分娩がどんどん進めば、私のような人間は「野蛮な国の女」ですらなく、ただの「野蛮な女」でしかなくなるのかもしれない。
生理についても、妊娠希望していない人が生理を止めるのが当たり前になっていけば、グダグダ言っている私のような人間は「野蛮な女」になっていくのかもしれない。

 

それでも、私は野蛮な女のままで良い。
自分が望むときには痛みや不快な症状を抑える治療を受けたいし、身体に深刻な影響が出る場合は選択とか言ってられず医師の言う通りの治療を受けるしかないのは受け入れる。


そういうとき以外では、自分の身体のことは自分で決めたい。
この欲望が無駄で無意味な、野蛮で旧弊な人間のこだわりと思われようが、譲りたくない。


そういうことを思った。

文藝 2022春号に掲載された水上文氏の文藝季評を読み、笙野頼子氏の言っていることを理解しようとして欲しいと思ったなど  

文藝2022年春号に水上文氏によって書かれた「たったひとり、私だけの部屋で」という文章に群像12月号に掲載された笙野頼子氏の小説「質屋七回、ワクチン二回」の一部内容についての批判が載っている。

 

 

批判するのはなんの問題もない。
しかし、水上氏は笙野氏のことを理解しようともせずに批判しているように見える。

読んで思ったことを書いてみる。

 

①「生物学的性別に基づく女性の権利」を守ること=トランス女性に対する差別?

 

作品内で笙野頼子氏はWHRCという団体と関りがある仲間と交流をしている。
そのWHRCは「『生物学的性別(セックス)に基づく女性の権利』を守ろうとする」団体と記される。そこから水上氏は飛躍して、WHRCと関係のある笙野頼子氏の仲間は「トランス女性に差別的な言動を繰り返す人々」だと指摘する。
なぜ水上氏はもう少し丁寧に説明しないのだろう?これでは「生物学的性別に基づく女性の権利」を守ること=トランス女性に対する差別になってしまう。
これでは笙野頼子氏のいう「女という存在自体、生まれ自体が差別者にされる社会」にもうなっているのではないだろうか?笙野頼子氏の言う女というのは生物学的女性(セックス)のことなのだから…生物学的女性の権利を求めるだけで差別とされることを水上氏は肯定しているのだろうか?
「生物学的女性の権利」のどこに問題があるのかもっと詳細に書いて欲しかった。

 

➁J.K.ローリング氏の発言について

 

その後、文章は笙野頼子氏が日本共産党ジェンダー平等委員会に「問い合わせ」を行った件についての話になる。
そこで笙野頼子氏がJ.K.ローリング氏への「連帯」を記す言葉を用いていたが、水上氏はJ.K.ローリング氏がトランスジェンダーへの差別的発言をしたと言う。
注でなぜJ.K.ローリング氏の発言が差別的だったのかに対する説明があるのだが、その説明では説明不足だろう。
「記事では『少女、女性、そして全ての生理のある人々』と書かれている」とあるが、記事タイトルは「生理のある人々」としかない。

つまり、女性が自分を「生理のある人々」の一人であることを認めなければ、そう呼ばれることを認めなければ、記事をクリックして読むことすらできないのだ。
J.K.ローリング氏のツイートは真面目さよりも茶化すようなトーンがあり、私はあまり支持できないのだが、それでも自分を「生理のある人」と呼ばれたくないという気持ちは私にもあるし、はっきり拒んでみせたJ.K.ローリング氏には救われた。

J.K.ローリング氏はのちに長文で自分の発言についての説明をしている。

www.jkrowling.com

女性はずっと生理という機能や子宮という部品を持つ道具のような扱いを長年されてきたし、今も道具扱いされている。だから、「生理のある人」「子宮のある人」といった呼び名を受け入れたくないという私みたいな女性は確実にいる。
しかし、このまま声を上げないでいると、「生理のある人」という呼び方こそ誰も排除しない良い言葉とされ、女性は「生理のある人」呼びを受け入れないといけない状況に追い詰められてしまう。

タイトルなんてどうでも良いじゃないかと思うかもしれないが、そういうタイトルであったことを水上氏は注に記して欲しかった。

 

③「世界中で女を消す運動」は陰謀なのか?

 

(1)「女を消す運動」は確かにある

その後、水上氏は「何より問題なのは、トランス差別への批判や権利の擁護が、小説ではあたかも世界的に広まる陰謀であるかのように描かれていることである」と書いている。
しかし、実際に女というものをジェンダーアイデンティティのみで定義して、生物学的、身体的な性としての女性を軽く見たり、そもそも存在しないものとする動きは広がっている。


続く文章で水上氏は

世界中で女を消す運動はこれからどんどん発展していくのだろうか?と「私」は言う。女を消す運動ではなくて女を抑圧する運動、女の中でも暴力と差別の危険性にとりわけ晒されている女をさらに追い詰める運動、そんな運動こそがまさに「フェミニズム」の名の下で広がっているにもかかわらず。

と書いているが、前半部の「私」(笙野氏のこと)の言う女は生物学的、身体的な女性のことを言っているし、後半部の水上氏の指す女はジェンダーアイデンティティが女である(トランスジェンダー)人のことを言っているのでかみ合っていない。
生物学的、身体的女性のことを言った笙野氏の言葉をジェンダーアイデンティティに基づく女性の話で塗りつぶしてしまっている水上氏の言葉自体が「女を消す運動」なのではないだろうか?

 

陰謀かどうかはともかく、そういう動きは広がり続けているのはニュースを追っているだけでもわかる。
例えば三省堂の辞書では「女」を引くと

「人間のうち、子を生むための器官を持って生まれた人(の性別)。」
〔生まれたときの身体的特徴と関係なく、自分はこの性別だと感じている人もふくむ〕

となっているようだ。

www.nhk.or.jp

項目で分けてすらいない。
生物学的、身体的に女性である人(動物の雌に当たる人)のことを指す言葉は三省堂の辞書の中には存在しなくなってしまっている。

「自分は女性であると感じること」、ジェンダーアイデンティティを重視するあまり、女性の身体的な部分が軽視され過ぎている。
その扱いの軽さが、女性スポーツや女性専用スペースに対する扱いにも表れてしまっていると私は思う。

 

(2)女性専用スペースについて

2018年にお茶の水女子大学トランスジェンダーの学生を受け入れることがニュースになったとき、私は賛成していた。
ツイッターでは女性トイレや更衣室をトランスジェンダーの学生が利用することについての不安の声が多かったが、私は大学側が対応するだろうし、大丈夫だろうと楽観視していた。女性トイレや女子更衣室をどのようにするのかには細心の注意を払うだろうと思っていた。

しかし、段々わかってきたのは、トランスジェンダーやその支援者のかなりの割合の人がトランスジェンダー女性が女性トイレや女子更衣室を利用することは当然で、ほかの女性が受け入れることも当然だと考えていることだった。

ニュースを見ていると、そういう話(トランスジェンダー女性が女性専用スペースを利用することで他の女性と衝突する話)が定期的に出てくる。

最近も甲南大学の学生たちが女性用トイレに入るトランスジェンダー女性を盗撮したり誹謗中傷したりする人たちのドラマを作り発表したようだ。
SNSでの攻撃を演出するために架空のツイートも作成して見せている)

www.kobe-np.co.jp

もちろん、盗撮も誹謗中傷もいけないことだ。それははっきりしないといけない。
(被害を訴えるために警察に出す証拠映像を撮影するような事情がある場合は別だろう)

ただ、このドラマによって「女性用トイレは身体が女性の人が使うトイレである」という暗黙の了解が崩れてしまっているのはどうなんだろうと思う。
今までもトランスジェンダー女性が女性用トイレを使うことはあっただろうが、そのことと「トランスジェンダー女性も女性用トイレを当たり前に使える。それを咎めることは差別である」と公表することはかなり違う。

 

もともと女性用トイレは男性よりも性被害に合うことが多いという女性の経験から抱く不安や困難に対する対応としてできたものだろう。
実際に安心できるかはともかく、それによって女性は多少の安全を手にして社会で生きていくことができる。
幼い頃から被害に合いやすい性であることを自覚させられ、自衛して生きろ、被害に合ったら自己責任と言われてきた女性にとって、女性用トイレをはじめとする女性専用スペースというのは貴重な避難所であり、大切な意味を持つ。

トランスジェンダー女性にも不安や困難があるとは思うが、女性用トイレを使うことが当然と考えること、そこまでならまだ良いが、声を上げて主張することは違う。
男性・女性とどう分けるかなんて、本人の内心ではどうとでも判断できるが、自由な解釈で女性用トイレに男性が入ってきてしまっては分けている意味がない。今のところ、基本的には体の性別で分けているという建前が存在していて、大体の場合守られているから女性も安心することができる。
実際、女性用トイレをトランスジェンダー女性が利用することは今もあることだろうが(防ぎようがない)、建前を前提に利用しているのと、建前を崩しさらにそれを広く知らせることとは全く別の話だろう。

さらに、甲南大学の動画に限らず見られる傾向だが、女性用トイレを使うトランスジェンダー女性=当然の権利がある人、女性用トイレのトランスジェンダー女性利用に疑問を持つ人=差別者という単純化された図式を啓発しようとする。
その図式を押し付けながら、反対する女性を簡単に差別者だと認定する回路を支持しながら、理解し合うことを呼びかけられても欺瞞としか感じない。

④既に「自由」は奪われている

水上氏は「文学の自由は守られるべきである」と書いているが、その後に続く言葉を読むと、結局笙野頼子氏のような思想を持つ者は文芸誌に書くなと言っているようなものである。

表現する「自由」を語るときには、自身に対する差別的な表彰や言説がまかり通るような状況で、どんな風に当の差別の対象とされた人が「自由」を実感することができるのか、どんな風に、「自由」の行使を恐れなければならないか、萎縮し、怯え、苦しまなければならないか、そうしたことを含んで語られなければ意味がない。表現する「自由」が叫ばれるとき、誰がそれを最も行使しているのか? 誰の「自由」がより優先されているのか?誰の「自由」があらかじめ奪われているか? これらを踏まえずに語られる「自由」は、そもそも「自由」などという言葉で表現すべきではない。自由とは、文学とは、そんな風であるべきではないのだ。

引用が長くなってしまったが、直接的には決して言わないが、水上氏は笙野氏のような人物の「自由」は自由ではないしそんな「自由」は許されないと言っているのだ。

このようなことはここだけではなく、至る所で行われている。
トランスジェンダー権利拡大の動きの中で、笙野氏のような立場の人は肩身が狭く発言の場が制限されると同時に、トランス差別者として責められ、そのような人の発言は聴くに値しないものとされる。さらに発言を曲解して本人が求めている真意と違った受け取り方をされることも多い。

このように発言の場を制限され、発言を差別という名のラベルを張り、真意を理解しようとせずに軽視する。それによって、さらに立場が狭くなっていく…それが笙野頼子氏のような思想を持つ人間の行く末だ。それで良いのか?

 

まとめー女は消されるのかもしれない


このままでは女性というのは身体的、生物学的なものよりもジェンダーアイデンティティの方が重要で、それに比べると体は重要ではないという状況は続くだろうし、さらにその傾向は強まるだろう。

 

そこに文学はどのような態度をとっていくのだろう?
笙野頼子氏のような作家に対してどのような立場を取っていくのか?

立場は色々あってよいと思うが、この水上氏の批評のように笙野氏が言おうとしていることを理解しようとすらしないのはどうなのだろうか?しかし、そのように理解しようとしないことが差別していないこととイコールになって称賛されることも多い。

 

例えば少し前にこういうニュースがあった。

ニューヨーク・タイムズ紙、『ハリポタ』原作者J.K.ローリングにまつわる広告が大炎上! 「彼女を見下すにもほどがある…」 広告に書かれていたメッセージとは・・? - tvgroove

ニューヨーク・タイムズ紙がワシントンD.C.の地下鉄駅構内にある電子掲示板に出した広告に「リアンナは、原作者不在となった『ハリー・ポッター』を想像している」というメッセージを載せたというニュース。
それは「ハリー・ポッター」に原作者はいらない、消してしまえ、ということをポジティブに描いたメッセージだ。
J.K.ローリングのような差別者は自身の作品である『ハリー・ポッター』から切り離され想像されても、それを広告として貼られても仕方ないという思想がそこにある。

作家にとっては命を削って作った自分の分身のような作品をそのように扱われることは許されるのだろうか?
人格否定と同じかもっと酷い話なのではないだろうか?

トランスジェンダーを差別するような人間は自身の作品すら取り上げられても当然だと考えるのだろうか?
笙野頼子氏以外の作家がどのように考えているのかを知りたい。

 

ちなみに、私はJ.K.ローリングの言っていることにすべて賛成するわけではないし、言い回しなどが良くないと思うこともある。それは笙野氏についても同じである。
それでも、私は#IStandWithJKRowlingと言うし、笙野氏のことも支持する。
支持しないと、身体的、生物学的な女性というものがいつの間にか消える可能性があるからだ。

昨日3月10日にも、このようなニュースがあった。

front-row.jp

「女」とは何なのか、私は断言することはできないので、J.K.ローリング氏と少し意見が違うかもしれない。


しかし、私はジェンダーアイデンティティだけが女性を定義するものではないと思っている。同時に生物学的、身体的な女性というものも存在するし、そういう意味でのマイノリティとしての女性のことを忘れてはいけないと思う。
それなのに、そもそも日本の国語辞典ではもう既に「女」という言葉にトランスジェンダー女性が含まれてしまっているし、生物学的、身体的な女性を指す別の言葉もない。
むしろ、「トランス差別反対」と言っているような人たちに「生物学的女性なんていない」などと言われたりする。
生物学的、身体的な女性の話をしているのに、ジェンダーアイデンティティの話にすり替えて笙野頼子氏のような人の言うことを理解しようともしない水上氏のような人も沢山いる。

このままだと女は本当に消されるかもしれない。もう消されているのかもしれない。でも、抵抗すればトランス差別と受け取られる可能性が高い。状況は絶望的だ。
これが絶望ではなく希望と取る人もいるだろう。でも、私のような人間にとっては絶望だから、抵抗したい。

そういうことを考えさせてくれた批評だった。

noteで笙野頼子が日本文藝家ニュースで書いた文章を批判した榎本櫻湖氏に対する反論

 

noteに投稿されたこの記事について書く。

note.com

 

前にこのブログでも取り上げた日本文藝家ニュースに掲載された笙野頼子の文章に対する批判を行っている。

hananomemo.hatenablog.com

記事を書いた榎本氏は、文芸誌にもこの文章と同じものを送ったようだ。
反応はなかったようだが、今後何らかの形で影響があるかもしれない。

また、笙野頼子氏の作家としての活動が、トランスジェンダーに対する彼女のスタンスのせいで阻まれている可能性がある。
実際そうなのかはわからないが、国際的な動きを見ても、トランスジェンダーに対して意見をすることが困難な状況があると思う。

いや、トランスジェンダーに対しての意見ではないだろう。
女性に対する意見をすることが困難になっている。

女性という言葉にトランスジェンダー女性を含む意味以外の意味を持たせることが許されなくなってきている。
女性というのはgender identityが女性という人のことを指すだけではなかったはずだ。
女性(動物で言うメス)の身体を持つもの、という意味も含まれていたはずだ。

 

しかし、その意味における女性、女は言葉の定義の中で、消されそうになっている。
笙野頼子の文章は過剰にも見えるが、確かに「女という文字は次々と消え」「女体も女権も女の歴史もリセット」という状況はある意味で進んでいる。

 

榎本氏は笙野頼子にタイトルで自分の性別を尋ねている。
私は笙野頼子ではないからどう答えるのか想像つかないが、1か0かで答えが得られる質問ではないだろう。

 

差し出がましく私が答えるとしたら、女性であることを否定することは絶対にないが、ある意味で(身体的という意味で)女性でないということは確かだろうということだ。

 

身体的または生物学的に女性という話をすると、陰茎のあるなしで決めているとか、性器で判断して決めているという風に言われることがある。
しかし、身体的というのはそういう意味ではない。
そこまで単純にはいかないが、確かに身体的な女性や男性という区別はつけられるはずだ。
例えばKathleen Stockの Material Girlsという本にはいくつかの身体的に女性であることの識別の方法がいくつか取り上げられ、検討されている。

確かに身体的に女性であるという状態は存在する。
その事実を無視してはいけないのは、女性は身体性だけで差別をされているわけではないが、身体性を無視しては見えない差別もあるはずだからだ。

 

女性用スペースやスポーツに関しても、女性の身体を重く見ている者とそうでない者がいるから、衝突が起きるのだろう。
スペースにしてもスポーツにしても、差別のない状態を重んじるならば男女混合にすればそれで済む。
しかし、そうすると女性が女性の身体を持つが故の困難に直面するからこそ、差別に見えかねない、しかし必要な区別がつけられたのだ。
そのとき、トランスジェンダーのことは考慮されていなかっただろう。

現在、多目的トイレやジェンダーフリートイレがある所は限られているため、トランスジェンダーの人が男女のどちらを使うかという問題はある。
しかし、だからといって男性と女性の身体的性差のことを軽く見ればよいというわけではない。
もともと男女トイレは身体の性別で分けられていたという原則は忘れないでほしい。

 

榎本氏は笙野頼子に自分は女性トイレを使っていることを伝え、笙野頼子がそれを通報するのか?と問うている。
笙野頼子がどう答えるかは私にはわからないが、私はその問いは的外れだと感じる。
問題は、一個人を通報するかどうかではなく、通報ができるかできないかということだ。
「女性と自認している人」「女性として社会に生きている人」をすべて女性として常に扱わないといけない社会になってしまったら、そもそも通報することが許されなくなるだろう。逆に差別者と言われてしまう社会になるかもしれない。
日本では正式にセルフID法が採用されることは当分ないだろうが、トランス女性に見える人は女性用スペースにおいて女性として扱わないと差別だ、という空気が広がる可能性はある。世間の空気がそうなってしまえば、女性用スペースに関して言えばもうセルフID法があるのと変わらないだろう。
女性の身体性は重視しなくても良いという無理解によって、女性用スペースに意見することが差別ではないかと疑われてしまう。

セルフIDという思想は、トランスジェンダーにだけ影響するわけではない。
性別=自分で選ぶもの、という思想は、すべての人…特に性別に今は含まれている身体的な意味が消されるという意味で、特に身体的に差別されてきた女性に影響が大きい。

 

もちろん、女性の身体的側面が重視されなくなることや、ゆくゆくは消されることを喜ぶ女性もいるだろう。
なくなっても別に構わないという女性もいるだろう。
それはトランスジェンダーの女性もいるだろうし、そうでない女性もいるだろう。
ただ、そういう女性がいるからと言ってそうでない女性の意見を無視しても良いというわけではない。

女性という言葉から身体的女性という意味が取り除かれる(そこに意見をすると差別者と見なされる)ことに対して意見を言うことは、女という言葉(の一つの意味)を守るための闘いだ。

笙野頼子が榎本氏の意見にどういう対応をするか、私は分からない。
ファンのことをとても気遣い愛情を掛ける作家という印象があるので、笙野頼子がファンの言葉に対応して、今までの意見を変える可能性もあるかもしれない。
しかし、笙野頼子がどう対応しようと、私は闘い続けたい。

榎本氏は「闘おうとはおもわない」と書いているが、笙野頼子の文章を差別発言と言っている時点でもう闘っているのと同じと私は考える。
そこをごまかして、命を奪おうとしていると笙野頼子にまるで人殺しのように言って脅して、勝利しようとしている榎本氏に私は反対したい。

 

 

辻元清美氏(と立憲民主党)は謙虚さと貪欲さをもっと持って欲しいと朝日新聞ポッドキャストを聴いて思った

朝日新聞ポッドキャスト ニュースの現場からの2月2日に公開された放送で立憲民主党辻元清美衆議院議員が出演された回を聴いた。

私は自民党日本維新の会よりも立憲民主党の方をどちらかというと支持しているし、投票先に選んだこともある。
だからこそ、辻元氏を応援したいという思いはありつつも、残念だと思う部分もあった。

 

 

1.批判は嫌われる。結果が総ての姿勢をもっと見せた方が良い

辻元氏が落選した昨年の選挙で、いかに自分を落とそうという企みに晒されていたことを繰り返し語り、維新の会のやり方を否定するような言葉が多かった。
しかし、そういう態度(相手のせいで自分は負けた)を取るのは、今の時代には嫌われることになると思う。もう少し、自分の負けを認めた方が、自分の実力不足を認めた方が良かったと思った。

 

今は「多様性の時代」だからこそ、数の力が絶対というところがある。誰から見ても数字というのは分かりやすく、平等に見えるから(実際に平等なのかはともかく)
批判することや相手に対してマイナスになることを言うのは今は嫌われがちで、代わりに相手よりも大きい数字を持っていることで圧倒すれば良いという考えが主流だ。
負けている側が勝っている側に文句を言うというのは印象が悪い。

 

今の時代、結果を出せないと働くこともままならない。
働いて金を稼ぐ人は、理不尽を飲み込んで必死で生き残ろうとしている人が多い。
正しい正しくないとか言っていても生き残れなければ意味がない。
そんな人が、理不尽さを訴えている辻元氏の話を聞いても言い訳のようにしか聞こえないだろう。

 

日本維新の会の議員やその他関係者の背後には、維新を支持し投票した多くの有権者がいる。
日本維新会の批判をするということは、投票したその有権者の批判とも受け取られることになる。
カジノ法案のことをビラに書かなかった」「辻元清美への誹謗中傷があった」といくら辻元氏が批判しても(絶対に誹謗中傷は良くないと私は思うが)、それでも有権者たちは、大人と呼ばれる人たちが、それぞれに判断し、自分の責任で一票一票投票したのだ。
そんな有権者たちを批判するように聞こえてしまう(辻元氏にその気がなくても)から、日本維新の会のやり方の批判はあまりしない方が良いと思う。
するときは場所(味方が多い場所)を選んだ方が良い。

2.維新は強い。強いリーダーに見えるから。「批判しても良い敵がいる」のは強い

 

辻元氏は日本維新の会が今後どこまで勢いを保てるか疑問を表していたが、私はまだまだ維新の勢いは止まらないと思っている。
それは「批判しても良い敵」を維新は持っているからだ。


今の時代、批判は基本的には嫌われるが「批判しても良い敵」というのもあり、それに対しては逆に多少攻撃が激しくても許されるし、支持される。
安倍晋三元首相もそうだったが、敵を認定し、そこへの批判を強くはっきりするというリーダーは強く支持されることがある。

安倍氏にとってそれは韓国、北朝鮮、中国、左翼、野党などだった。
維新にとってそれは「日本の古い体制、それを保持してきた政治家」だ。そこには自民党とともに野党も含まれる。

特に自民党批判よりも野党批判の方が好まれることが多い。
それは、自民党の方が色々な意味で強いからだ。
弱いくせに強い言葉で批判するような人間は嫌われる。

逆に、強い(とされる)者が弱いくせに主張している者を批判するのは多少暴言のようなものがあっても支持されることが多い。
だから、野党議員である辻元氏に対する批判については気にされないが、逆に辻元氏が何かを批判するとなると徹底的に嫌われてしまう。

余裕がなくなり、どんどん貧しくなっている国である日本において、求められているのは強いリーダーだ。
それは自分には優しく、敵には冷淡なリーダー。
全員平等に優しいリーダーよりも、敵には冷淡である方を望む人は多い。
今の時代、どんな有能なリーダーだとしても、全員平等に幸せにはできないだろう、それならば頑張っている自分や自分の仲間を気にかけながら切り捨てるべきところは切り捨ててくれるリーダーが良いと思うのだろう。



そんな人々にとって、立憲民主党のような野党が誰も取り残さないような社会を目指していても、甘っちょろいとしか思えないだろう。
みんなで沈んでいくとしか思えないだろう。
実際に全員で生き残る道はないのかという話とは別に、実際に毎日を生き残るために戦いのように生きている人間にとって、それは自分の生き方を認めてくれない意見にすら聞こえるだろう。
敵を切り捨てるという姿勢を見せてくれる方が、敵ではない自分を認めてくれているように思えるし、安心できる。

維新が敵を設定し、そこに厳しい態度で接する姿勢を見せてくれさえすれば、敵ではない人々は安心できる。
悪いことにはならないし、たとえ悪くなっても仕方がない、と思える。
そういう意味で、コロナ周りの大阪の状況がかなり悪くなっても、大阪府民の維新支持はなかなか崩れないだろうと思う。
他の選択肢を選ぶより維新の方がマシだと思われているのだ。

 

3.辻元氏も立憲民主党も頑張れ。謙虚さと貪欲さを持て

 

辻元氏、また彼女の所属する立憲民主党はこれからもしばらくは厳しい状況に置かれるだろう。
自民党からも維新の会からも敵認定されているし、「批判しても良い敵」と見なされている。
辻元氏や立憲民主党の持ち味は、批判を嫌う世間の風潮に合っていないというのもある。

それでも、地道にやっていくしかないだろう。

たとえば、菅直人元首相が橋下徹氏に対してしたヒトラー発言については良いのかどうか分からないが、その発言に対する批判に毅然とした態度で対応したのは良かったと思う。
理屈の通じないことを言う相手にNOを言うことで、理屈を重んじる人間、政党であるという印象を与えるから。

立憲民主党にも問題はあるが、それでも立憲民主党にしかない良さをなくさないようにしてほしい。
一時的には批判されたり議席を減らしたり、厳しい状況が続くだろうが、改めるべき部分は改めて、変えるべきでない部分は変えずにいてほしい。

 

辻元氏は、有権者の支持が自分よりも維新の会の議員の方が高いという事実から目を逸らさないで欲しい。自分と党の至らぬ点を振り返ってほしい。
いくら維新のやり方に問題があろうと、メディアに問題があろうと、それでも有権者が選んだのは維新だ。そこにいくら反論しても、今はマイナスにしかならない。

辻元氏が謙虚になったとしても、支持する人は辻元氏の強さを見てくれるだろうし、応援もしやすいだろう(維新の支持者に反感を持たれなくなるだろうから)

 

また、ポッドキャストで聴き手をしていた神田大介氏の言うように、選挙戦に勝つには維新がしたような戦略性も大切だと思う。
貪欲に勝とうと行動して欲しいと思う。

 

辻元氏のような政治家は必要だと思う。立憲民主党のような政党も。
だから、色々な意見に耳を傾けて、変わるべきところは変わって欲しい。

 

 

2021年12月7日に李琴峰さんがツイッターで笙野頼子さんを批判したことへの反論

2021年、12月、私の好きな作家の1人である笙野頼子の書いた文章が、同じ芥川賞作家である李琴峰という作家によってツイッターで批判的に取り上げられた。


https://twitter.com/Li_Kotomi/status/1467963111156367362


日本文藝家ニュースという、一般人は読むことが困難な媒体に書かれたエッセイだったが、他の作家がそのエッセイの画像を上げていたので、私も読むことができた。

李氏によると、笙野頼子の文章は陰謀論だそうだ。
たしかに「女という文字が消え、女という存在自体が差別者になる」という一文があるが、そんなことはありえないと思うかもしれない。
しかし、これまでの笙野頼子の書いたものを読めば、ここでいう女は「生物学的、身体的な女」であることは間違いない。
そんなものはない、という人もいるかもしれないが、現在、生まれた時に医師による性別診断はある。ほかの生物の雌雄と同じように、ヒトにも身体の特徴で男と女に大体は分けられる、と考えられる。例外的な人間もいるかもしれないが、だからといって身体的、生物学的な女性の判別法がないとは言えないだろう。判別法があるということは、身体的、生物学的な男性や女性は存在する、と言える。笙野頼子の言う女というのはそういう意味だろう。

その意味の女という言葉をなくそう、という動きは確実にある、と言える。「トランス女性は女性です」というフレーズがある。女性に常にトランス女性を含めるべきという意見は広がっている。
それは、女性の身体を問題にするときにも例外ではない。スポーツで女性としてトランスジェンダー女性の選手が出場するのも一例だ。生理や妊娠、出産の話をするときに女性という言葉を使わず「生理のある人」や「子宮のある人」という言葉を使うことが適切だ、と言われるようになったのも一例だ。
はっきりとは言われないが、確かに、身体的、生物学的な女を指す女という言葉は否定されようとしている。「トランス女性は女性です」や、大会に出場するトランスジェンダー女性選手や、「生理のある人」呼びに反対する人は、トランス差別者と呼ばれる可能性がある。そういう空気に染められることで、嫌だ、と思っていても言えなくなっていく。

「女という文字が消え、女という存在自体が差別者になる」というのは、女=身体的、生物学的女性とすれば、決して荒唐無稽ではない。女=トランス女性を必ず含む、となればそういう意味での「女という文字が消える」し、「女とはそういう意味だけの存在じゃない。身体的、生物学的女性は存在するし、それを指して女と言っても良い」と主張した者は差別者と非難される社会になれば、「女という存在自体が差別者になる」というのも間違いではない。
それを笙野頼子は敢えて女とだけ表現している。逆に、トランスジェンダー女性と書くべき部分については敢えて男と書かれている。笙野頼子という作家らしい文章で、笙野頼子の感じている問題意識を露わにしている。

(トランスジェンダー女性を男と書くのは良いことではないと私は思う。しかし、私も笙野頼子と同じように、トランスジェンダー女性はどんな文脈でも常に女という考えには反対の立場だ。生物学的女性という存在を消そうとする「トランス女性は女性です」等のスローガンに対抗するためには、あえて(生物学的には)男だと言わなければならない場合もある、と私は思う)


腹立たしいのは、そういう注意を払っている文章に「陰謀論」や「悲しい」やらの拙い感想を投げてツイッターで共感を集めようとした李氏の浅はかさである。自分でどういう文章であるか示そうともせず、会員以外読めないエッセイについて、公開で批判をした。あげくに「私はこんな文章を書くような人には絶対になりたくないと強く思った、ということだ」とまで言って、人格否定をする。批判するにしても、やり方があるだろう、と思う。

人にはそれぞれ譲れないものがあり、他人からは下らない不安でも、本人にとっては軽く扱うことなどできない不安であることがある。そういったことを扱うことができるのが、文学の役割の一つだと私は思う。
私は笙野頼子と全く同じ考えを持っているわけではないが、男とは違う肉体を持つものとしての女というものを消されることを危惧している女である。


また、ツイッターをしていない作家がある媒体に書いた文章に対して、他の作家がツイッターで批判をするということについても、私は怒りを感じている。
ツイッターの文章というのは短い文章で自分の共感者を手早く集めて数字として示し、違う意見を持つ者を斬る刃のような特徴がある。
(もちろん、ツイッターで言葉が刃として使われる場面はごく一部だけであり、平和的な使い方がほとんどである)

笙野頼子ツイッターをしているのならば対等な立場で斬り合えるが、していないのだから勝手に自分の舞台に引き上げて斬るのは違うと思う。


作家でツイッターをしている人はいくらでもいるが、ツイッター的な価値観…正しくない者は言葉の刃と共感者の数の刃で斬れば良い、という価値観は文学の世界で主流になって欲しくない。

 

笙野頼子は1990年代に純文学論争というものを起こし、言葉の刃で論敵と闘った。
しかし、それは自分自身が研いだ言葉でのみだった。
ツイッターのような、多少拙い言葉でも敵を叩けば同じ欲を持つ共感者を集められるようなツールは使っていなかった。(ツイッターの存在自体がなかった)
ツイッターを使うのは自由だが、気をつけないと、作家が言葉への高い意識を失うことになると思う。
文学は孤独に言葉を研ぐものだと私は思っているので…そんなの思っているのは私だけかもしれないが。


女と文学という、私にとって大切な2つのものに対する危機感を李琴峰氏のツイート群に対して感じたので、反論を試みてみた。
自信はない。
ただ、自分が抗ったという記録を残しておきたかったのだ。